テーマ:ご当地物語 / 箱根

すぐりの卵

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カーブに合わせて、すぐりの華奢な肩が前後に揺れる。
 二人きりでなくて良かった、と今は思う。普段なら、人を傷付けることを恐れて言葉を押し殺してしまうような人間だ。そのすぐりが温まった空気を打ち砕くような真似をするのは、家族の中にいるからこそなのかも知れなかった。



 サイドブレーキを引く音が聞こえた。みんながごそごそと身支度を始める。
「外、寒いかしらね。コートいる?」
「寒いんじゃない。山の上だし」
 いち早くコートを羽織っていた私は、ドアを開け、コンクリートの地面を踏んだ。
 背後でお姉ちゃんが
「寒っ! ちょ、すぐり、待って。一旦閉めて!」
と騒ぐのが聞こえたので、ドアを閉める。噴き出し口からはだいぶ距離があるけれど、駐車場にいても独特の硫黄の匂いが感じられた。山の上の方でもくもくと白煙が上がっているのは車窓から見えていたけれど、そちらに背を向けて、駐車場を取り囲む木製の柵の方へ一人足を進める。
人の気配も鼻をつく匂いも遠のいていく。ゆっくりと空気を吸い込むと、肺まですうっと冷えていく感覚があった。浄化されていく。身体の中の靄のような淀んだものが、透明な空気で薄れていく。このまま、どろどろしたもの全部、体ごと消えてしまえればいいのに。
眼前には雪を頂いた富士山がそびえていた。真っ青の空の中に雪の白は良く映える。青みがかって見えるほどの眩しい白に、幼い子どもの白目の青さを思い出して、胸の奥が鈍く痛んだ。
 ふと気配を感じて隣を見ると、よしくんが立っていた。
「すごいなー」
とよしくんは笑った。
「綺麗だ」
 そう言って、首に掛けてあった一眼レフのシャッターを切る。
 どうして彼は笑うのだろう。いなくなったのは、よしくんと私の子なのに。悲しくないわけがない。子どもが出来たと言ったとき、よしくんは本当かと五回も聞いて、力いっぱい抱きしめてくれた。つわりになった私のために、一日三杯は必ず飲んでいたコーヒーも止めた。それなのに、何事もなかったみたいに笑う。私の傍にいる。
「どうして青いんだろう」
 よしくんが呟いた。考えていたことが分かってしまったのか。心臓がどんと大きく脈を打った。富士山のてっぺんをじいっと見つめて鼓動を鎮める。
 ほうと深く息を吐くのが聞こえた。
「なんで山って、遠くから見ると青いんだろうな。近くで見たら、木は緑っぽいし、富士山の表面なんか、特に赤っぽいのにさ」
 力が抜けた。
「不思議だよなあ」

すぐりの卵

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