テーマ:お隣さん

隣の家の弟

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「それ、やめてくださいよ」
教育係として先輩についてもらっていたときから、先輩はよく私を驚かせてくる。いまも、先輩は蚊を叩くみたいに私の耳元で両手を合わしたのだろう。半分ねむりながら夢を見ている気がするけれど、なんの夢を見たのだろうか。
「疲れてるんじゃない?」先輩が栄養ドリンクを私の顔の前に持ってくる。なにかのCMみたいにかっこつけて。
「ありがとうございます。あと、もうひとがんばりです」
「いねむりしなきゃね」
「はは、そうですね」
「おれも手伝うわ」
「いや、大丈夫です。ほんとに、もう少しです」
「そう? じゃあ、気をつけて帰ってね。お疲れ」
「お疲れさまです」
 ドアが閉じられて、大部分の灯りが消えたオフィスのなかでひとりになった。
 最近、先輩の前でなぜか緊張してしまう。入社したてのころとはまたちがう緊張なんだ、とこのあいだ同期の子にいったら「好きなんじゃないの?」といわれてしまった。そしたら、余計に先輩のことを意識するようになってしまった。でも、いいかもしれない。ずっと、日々淡々と課されたことをこなしているだけだし、残業もふつうにあるから、このまま先輩を好きになって、それからなんとかして寿退社っていうのも。でも、期待はしないようにしよう。喫煙所で栄養ドリンクを飲みながらたばこを吸って、それからまたパソコンに向き直った。
 会社を出て家に帰ると、お風呂にも入らずにベッドに倒れ込んだ。それでも、なんとか這いずって部屋の電気を消すと、向かいの部屋の灯りが入り込んできた。ずっと空いていたその部屋にだれかが入居してきたらしい。
 私がこの家に住むことを決めたのは弟だった。大学4年生だったとき、母親といっしょに内定先の近くで部屋探しをした。ひとり暮らしをするのははじめてのことだったけれど、私には特に希望がなく、仲介業者の人の案内や母の主張に流されるようにして、最終的に候補が三つまでに絞られた。会社から徒歩3分の物件と、会社まで電車で20分だけれど静かめなところ。そのふたつはどちらもマンションで、ここは会社から自転車で15分の二階建てのアパートで、それぞれの階に3部屋ずつある。左右に同じタイプのアパートが並んでいて、同じように外観も部屋もきれいだけれど、あたりにはなにもない。「どれでもいいよ」と私は食卓に並んだ物件の資料を見ていった。ひとり暮らしなんて不安ではないと、少し強がってみようとしたのかもしれない。「おれだったら、ここがいい」と弟がいった。年齢よりずっと幼いような声だった。すると両親も「いいんじゃない?」といって、私も「ここにする」といった。私も両親も、その少し前の、あの日のサプライズのために弟と打ち解けられるようになっていた。弟に安心していた。信頼しようとしていた。サプライズを計画したのは弟とユウキくんだった。

隣の家の弟

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