64年のビオトピア
「え、皆トイレに本置かない?」私は少し驚いて尋ねる。
「いや、まあ置いたりもするけどさ。せいぜい2、3冊だよ」とナモくん。
「『北斗の拳』がサウザー編まであって、『ジョジョ』が第3部の途中まで、んで『寄生獣』全巻あるのはいくらなんでもおかしいだろ。しかも夏江んちユニットなのに」
トイレのタンクから天井までつっぱり式の棚を設置し、私はそこをユニットバス用本棚としていた。恐らく30冊以上のマンガがある。湿気ですぐにふやけるため、ユニットバス用書籍はコンビニの廉価本復刻コミックと決めており、どうしてもラインアップが古くなりがちではあるのだけど。
なぜそんなことをしているのかといえばそれはひとえに、私がこの浴室を愛しているからだ。私は一日の大半をユニットバスで過ごす。用を足すときでなくとも、ここでマンガや本を読む。物語の世界に没入できるような気がしてわくわくするのだ。
「私、次引っ越したら絶対独立洗面台にするけどな。ナモ、これはトキ?」京子がマンガのコマを指しながら尋ねる。二人は大学にほど近い私の家に、ちょくちょく課題をやりに集まる大学のクラスメイトだ。
「そいつはアミバ。……夏江そんなら、安いタブレットPC買いなよ。マンガとか雑誌も読めるし、それなら一台ですむんだからさ」
なるほど。私は大きく頷いた。子どものころ、風呂用のミニテレビなんてものに憧れていたことを思い出す。バイト増やして防水タブレットを買ってもいいな。
「確か、タブレットだとマンガや本だけじゃなくて映画とかも見れるんだよね」
私の問いに、「見られるけど、夏江一生ユニットバスのなかで生活しそうだな」とナモくんが難しい顔をした。
週に一回は、ユニットバスのおままごとのようなバスタブにお湯をはる。そして室内の灯りを消して静かに浴槽に浸かる。東京には暗闇がないとよくいわれるが、光源がひとつもないユニットバスはお手軽で本当の漆黒だ。
換気扇の作動音、錯覚のような水の音。私はゆっくりとぬるい湯の中に顔を沈める。軽く自分の柔らかいお腹に触れてみる、おそらく胎内はこういう場所なのだろうと思う。
トイレと洗面台、シャワー、バスタブを僅か一坪のスペースに収めた特殊機構は「ユニットバス」と呼ばれ、都内の一人暮らし用住宅に多く採用されている。ユニットバスが誕生したのは1964年東京オリンピックのときであり、タイトな施工スケジュールのなか進められた観光客向けホテル工事において編み出されたアイデア技術らしい。極限までのコンパクト化と、なにがなんでも風呂おけに浸かってやるという日本人的執念が生み出したこのシステムは、2016年現在、多くの上京大学生の暮らしを支えてくれている。私や京子、ナモくんのような。
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