テーマ:一人暮らし

64年のビオトピア

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 床にミントの種を撒き終えると、土の上に木製のすのこを置く。これで用を足すときにも足が土で汚れることはない。水は十分すぎるほどあるし、温度も申し分ないだろう。私はわくわくして扉をしめた。もうミントの爽やかな香りが漂ってくるような気さえした。

「うおおうっ」
 ユニットバスから京子の大きな声がした。
「ちょっと、夏江あんたどうなってんのよ!」
「いや、私も緑が欲しいなーって」
「緑ってレベルじゃないよ!」
 京子がナモくんをひっぱって、私のユニットバスを見せる。
「うわ、これやばいな」ナモくんがメガネのつるを押し上げて言った。
 梅雨明けのユニットバスの床は一面の緑だ。急激に成長したミントが、床に敷き詰めた土を完全に覆い尽くしていた。長いものだとくるぶしの高さまで背を伸ばしている。足置き用のすのこの隙間からもにょきにょきと顔を出しており、清涼感のある香りが台所まで漂ってきた。そして種をまくときに入りこんだのか、なぜか換気扇の送気口、そしてトイレのタンクからも若々しい新芽が顔を覗かせていた。
「いいでしょ、緑」自慢気に胸を張る私。
「こりゃまるでテラリウム……いや、ビオトープだな」
「ビオトープ?」
「動物や植物が恒常的に生活できるように造成された生息空間。簡単にいえば、『外界から遮断された一区画の生態系』って感じかな。このユニットバスには水があり、光があり、植物まであるだろう。そして夏江っていう動物まで暮らしてる。これは立派な一坪の生態系だよ」
「夏江あんた、バスタブに水はって魚でも育てたら、ここで自給自足できるんじゃないの」京子の呆れた声。
「それこそマジに生態系だな……いや京子そういうの言うのやめとけ、夏江ならやりかねん」
「だめだよ。それじゃお風呂入れないもん」
 私は口をとがらせる。そっと閉めた扉から、瑞々しい生命力の残り香がする。つけっ放しの換気扇は、今日も彼らの香りを屋外に吐き出しているはずだ。

64年のビオトピア

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