テーマ:お隣さん

夕陽のドーナッツ

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 今朝は上履きのことで怒鳴られていた。朝まで飲んで部屋に帰り、キッチンのシンクに手をついて胃の腑に水を流し込んでいるときだったので、甲高い怒鳴り声はすぐそばにきこえた。わたしの部屋はキッチンと風呂とトイレが廊下に面している。どうやら少年は週末、上履きを持って帰るのをたびたび忘れるようだ。忘れたことは棚に上げて、もうボロボロだから新しいのを買ってよ、とママに訴えたが、
「○○でしょう!」と一蹴されている。「○○」の部分はママの声が廊下に響きすぎてきき取れない。買ってあげたばっかりでしょう! いや、洗えばきれいになるでしょう! かもしれない。幼い声のほうはハンカチをしぼるような声で反論をしている。そういえば小学生のころ、わたしもボロボロのを履いていた。持って帰るのつい忘れ、汚いまま履きつぶされた。もはや洗ってもきれいににならないほど黒ずんでしまっていた。だからといって親というものは簡単に買ってくれないものだ。子供の訴えは通らないのがグローバル・スタンダードである。
 突然、バン、というような音が廊下に響く。少年がママに向かって何かを投げつけた。(投げつけたと思われる。想像である)ママの怒りは高みに達し、一段上のトーンで怒鳴るのがきこえる。今朝はずいぶんと派手である。少年は逃げるように階段を駆けおりていくのだった。
 彼女たちが引っ越してきたのは二年ほど前だ。幼い顔が背負う真新しいランドセルはずいぶん大きかったが、ついこの前、マンションのエントランスですれ違った少年のランドセルは、背丈にちょうどいい大きさになっていた。あしがすらりと長くなって顔つきもすっかり少年になっていた。
 子供を引き取って離婚し、比較的家賃の安いこのマンションに越してきたママは……彼女は……恋愛というものに、男というものに絶望している……わたしのこしらえた勝手な妄想である。ママのオンナの部分は少年を送り出した部屋のどこかに隠れているはずだ。わたしがもし、唐突に、彼女の人生に登場したとしたら、一体どうなるだろうか。ロマンスがあるとすれば、それは子連れの恋愛だから一味違うものだろう。小説やドラマのようにロマンティックにはいかないはずだ。隣に住む、まだ盛んな心の独身男性が。挨拶を交わすだけの得体の知れぬ隣人が。勝手な妄想はなんども寝返りをうつ。妄想というものは閉じ込めておけば誰にも迷惑がかからないものだから許してもらいたい。とにかくママの生活には潤いが足らないのは間違いない。

夕陽のドーナッツ

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