テーマ:お隣さん

夕陽のドーナッツ

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 先日読んだ林芙美子の随筆をふと思い出す。作者が友人と恋愛について語り合う場面だ。ある未亡人の話である。
 恋の気持ちを失ってくると、心がだんだん乾いてきて、容貌も衰え、どうして生きていけばいいのかわからなかったけれど、ふと好きな青年をみつけて仲良くなったら、急にイキイキと美しくなり、面白いことに二人の子供を叱らなくなったという。恋愛のない時分は朝から晩まで子供を怒鳴りつけていたそうだが、とにかく恋人に逢った翌日は生活が豊富になるという。
 ママとわたしがどうにかなったとして、わたしは彼女の生活を豊富にしてあげられるだろうか。頭をなでて、たっぷり甘えさせて、溢れるほどの愚痴を残らずすくい取ってやる。彼女の、空のマグカップを、やすらぎで満たしてあげる。しかし、こんな想像は無益である。彼女にとっては隣人のキモい妄想にすぎないのである。けれど妄想は妄想らしく自分に都合よく織りあげたいもんだ。けれど最近は物語も頓挫しがちである。だんだん億劫になって、細部が雑になりがちだ。この不景気で、別の考えごとが増えてきたせいだ。わたしの生活も豊富ではない。ロマンティックな妄想は老眼のようにぼやけ「養育費はもらってるのだろうか」などと急に現実的な考が天井からおりてくる。仕事はどうしているんだろう。公的な援助はきちんと受けられているんだろうか。少年はちゃんと育つだろうか。
 しばらくたったある夕方、いつもどおり出かける準備を済ませ、わたしは仕事場に向かっていた。やけに人通りが多いと思ったら今日は祝日だとようやく気がつく。そういえば少年は帰ってこなかったなと思う。そうか、学校は休みだったんだ。わたしはカレンダーを意識せずに暮している。我ながらのんびりしたものだ。商店街のメイン通りは華やかだった。若いカップルたちが夏色の鮮やかな服を着て蝶のように行き来している。真夏の夕方はほんのり落ち着いた貴婦人の明るさで、夕闇のノックにいつまでも気がつかない。うまいと評判のドーナツ屋さんの行列を避け、子犬に靴のにおいをかがれながら、カップルを追い越し、通りを足早に歩いていく。
 わたしの仕事場は自宅から近く、この商店街を脇道に入った、小さな古いビルの二階にある。欧風な食事とワインを提供するこじんまりとした店だ。大人数で騒ぐというより、カップルがゆったりと楽しめるように全体を整えているつもりである。店につくと、バイトのミホちゃんが先に来て準備をしていた。昨日と同じ笑顔である。おとといと同じ笑顔である。彼女の存在がわたしをイキイキとさせるんだと知った。もっとも彼女にとってはあずかり知らぬことであるが。

夕陽のドーナッツ

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