薬指さん、こんにちは
「わたしも、持っていかれたことありますよ、小指」
「へえ」
意外そうな声と共に、視線がわたしの両手のあたりを彷徨う。
「ああ、わたしは足なんです」
「そうなんですか」
「でも大丈夫、生えてきましたから、小指」
「はあ」
爽やかくん(仮)はちょっと驚いた顔をして、そうですか、と呟いた。酔っ払いの戯言だと聞き流したのか、それとも。
チッと赤い火が灯る。だいぶ短くなった煙草を一吸いして、爽やかくん(仮)はぽかりと煙を吐いた。
「じゃあ僕も、そのうち生えてくるのかな」
「ええ、きっと」
「でも」
短くなった煙草を携帯灰皿にねじ込みながら、爽やかくん(仮)は独り言のように呟く。
「でも、生えてきて欲しくない気もするな」
「どうして?不便じゃないですか」
こちとら昨日から足の薬指がないだけで結構大変な思いをしているのだ、よろけたりつまづいたり。右手の小指がないのはもっと不自由だと思う。
爽やかくん(仮)は目を伏せる。瞼を下ろすと、口元の意外な幼さが際立った。
「だって、取り返しが付いちゃう気がしませんか」
「取り返し、ですか」
それって何だろう。
ユキちゃんのことを考える。夜中ずっとわたしを待っていただろう幼い女の子のことを思うと、確かに胸は痛むし自分を責めたくなる。だけどもう過去には戻れないし、今さら連絡してあの時はごめんなんて言ったところで、それで?ってなるだけ。いたずらに相手を巻き込むだけ迷惑で、苦味は自分一人で飲み下すしかない。
それが、取り返しがつかないってことなのかな。
指は何度だって生えてくるけど、失う前に戻れるわけじゃない。小学二年生だったわたし、金曜日の前のわたしにはもう戻れない。どう足掻いても、今ここにいるのは振られて一人酒を煽る独身アラサー女だ、そう思うと何故か可笑しくなった。
「付かないですよ、生えてきても」
思いがけず、軽い声が出た。
「――そっか」
爽やかくん(仮)――いや、爽やかじゃない一面をはっきり見てしまった以上もうこの呼び方は不適格か――は、泣きそうな表情で二本目の煙草に火を付ける。
「じゃあ、大丈夫だな」
「そうですね」
缶ビールを一気に煽ると、口の中を炭酸がパチパチと暴れ回った。
彼の小指はどうか知らないが、わたしのなくした薬指はそのうち生えてきて何にもなかったような風で隙間を占拠するだろう。そうなった時、中指と小指は新しい薬指に挨拶したりするのかな。さようならお隣さん。こんにちは、新しいお隣さん。
薬指さん、こんにちは