テーマ:お隣さん

薬指さん、こんにちは

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 ストッキングを履こうとして、指が足りていないことに気がついた。
「わお、久しぶりかも」
 思わず独り言が口をつく。
右足の中指と小指の間、昨晩まではささやかながら存在を主張していたはずの小さな薬指が何処かに消えて、歯の折れた櫛のように間抜けな空間が顔を覗かせていた。どうも恐縮です。いえいえこちらこそ。
 中指と小指を繋ぐ股の部分はつるりと綺麗なもので、ビニール製の人形の皮膚のように艶々としている。爪を立ててみるとちくりと痛い。やはり夢ではなさそうだ。
 テレビで女子アナが時刻を告げる。八時です、お天気をお伝えします。
「ヤバ」
 まあ所詮薬指なので歩くのに支障はないはずだ。丸めたストッキングを手にとって、今度こそ足を突っ込んだ。少しだけ余る生地を適当に引っ張って誤魔化し、テレビを消して鞄を掴み靴をつっかけて玄関から飛び出す。がちゃん。うわっ。
「あ、どうもすみません」
「あ、いえ、こちらこそ」
 危うく接触事故、ドアのすぐそばに人が立っていた。幸いぶつかりはしなかったけれど軽く頭を下げる。CMで見たことのある水色のシャツ、引越し業者だ。ちらりと目をやれば、水色シャツ軍団がわらわらと出入りしているお隣の部屋。
 ああ、だからか。でも大して親しい相手でもない、っていうか正直顔もよく覚えてないんだけどな。消えた薬指に語りかける。お前もなかなか律儀だね。
 鍵をかけて歩き出す。ちょっとだけ、バランスが悪い。

 電車が揺れる度どうにも右足の踏ん張りが効かなくてよろけてしまい、前に立ったOLにぶつかっては睨まれている。
 いなくなってみて初めてその存在の大きさがわかる。昔の人は良いことを言う。今まで気づかなくてごめんね、薬指。吊り革を握りしめて反省する。
 初めて指が足りなくなったのは小学校二年の時だった。マンションの隣に住んでいた仲良しの女の子――毎日一緒に登下校して遊ぶ親友だったのに、名前がどうしても思い出せない――が引っ越す日の朝、母親がセールで間違えて買ってきた五本指ソックスを履こうとして、小指だけが余ってしまったので気がついたのだ。
 ママ、小指がどっかいっちゃった!母親は洗濯物を干しながら、――ちゃんに挨拶してらっしゃいと怒鳴り返した。それでわたしは、このとっておきの事件を親友に報告すべくスニーカーをつっかけて家を飛び出した。
 彼女はダンボールだらけの部屋の隅で膝を抱えていた。わたしはご両親にきちんと挨拶してから、その隣にそっと忍び寄った。

薬指さん、こんにちは

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