テーマ:お隣さん

薬指さん、こんにちは

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「――ちゃん、あのね」
「なに」
「凄いこと起きたんだよ。あのね、わたしの小指、なくなっちゃったの」
 わたしはワクワクして彼女の反応を待った。笑い上戸の彼女はなにそれ!と爆笑して転げまわるはずだった。
それなのに、何故かその時は赤く腫れた目でじっとわたしを睨むだけだった。あてが外れて戸惑ったわたしがとにかくソックスを脱いで見せようとしたところで、彼女はわたしを思い切り突き飛ばした。片足を上げた変な姿勢をとっていたわたしはあっけなく転んで腰を打った。
「痛」
「なにそれ。全然面白くない。馬鹿じゃないの」
「何してるの」
 慌てて駆けつけてきた母親の手を振り払って、彼女はもう一度わたしの肩を強く押した。
「嘘つき!」
 大きな目から、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
 結局それから一言も口を利かないまま、彼女は巨大なトラック(そういえばあの時も例の水色シャツ軍団の引越し会社だった)に乗って去っていった。何回か手紙を出したのだけれどちっとも返事はなくて、それでわたしもいつの間にか止めてしまって、結局彼女とはそれっきりだ。
 それ以来近くにいる誰かと別れを迎えると、わたしの足からは指が消えて、そのうち生えてくる。徐々に伸びてくるようだったらかなり不気味だがそうではなく、ある日気がつくと生え揃っているだけのことなので特に気持ち悪くも不自由もない。
 電車が止まる。人が怒涛のように降りて乗り込む。肩がぶつかり肘が当たり、何ならキスだって出来ちゃいそうなくらい近くにいるのに、みんな名前も知らない他人、電車を降りたらそれっきり。
人の縁って儚いね。そんなことを考えていたらうっかりOLの踵を蹴ってしまい、舌打ちされた。

 久しぶりに恋人にディナーに誘われたら、胸が高鳴っちゃったり仕事で凡ミスを連発したり化粧直しに時間をかけちゃったり、ついでに今日の下着上下揃ってないんだけどどうしようなんて頭を悩ませるのは当たり前で、そしてちょっとした楽しみではないかと思う。
 残念ながらその全てが、この一言で黒歴史と化した。
「別れて欲しい」
 こんな時だというのに、薄暗い店内のムーディーなランプに照らされる真剣な表情が格好良いなんて反則で、薬指の指輪がわたしを嘲笑うようにキラリと光る。
「やはり家庭を壊すことは僕には出来ない。妻を愛しているんだ」
 わたしの上司であり恋人だった男は、言いたいことだけ言って颯爽と立ち去った。何ともあっけない別れ。飲み物しかオーダーしなかったのはこのためかこんちきしょう。

薬指さん、こんにちは

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