テーマ:ご当地物語 / 北海道帯広市

それからの、一年

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 コートの襟を立てながら、私はエスカレータへ向かって歩き始めた。帯広駅は、不慣れな人間が迷うほど広大ではない。かといって、うら悲しくなるような貧弱さもない。私はさして不便を感じることなく、まるで慣れた土地ででもあるかのようにタクシー乗り場までたどり着くことができた。
「どちらまで行きます?」
 折よく客待ちをしていた運転手にそう問われて、初めて私は、これから向かう新居の住所を控えて来なかった事を後悔した。
「あの……テニスコートのね、そばなんですけど、すみません私、帯広の地理に疎くて。」
「テニスコート?自由が丘でしょうかね?」
「ああ、そうです。とりあえずテニスコートまで連れて行っていただければ、なんとかなります。」
「へえ、観光かなにかですか?」
 小さなエンジン音が響く。運転手はメーターを操作すると、タクシーを走らせながら、ミラー越しに私の様子をうかがってきた。
「いえ、観光ではなくて。」
「ああ、御親族かお友達の家ですか。あの辺は住宅街ですからねえ。」
「はあ。」
 私は深い疲れと幸福感の中、まどろんでいった。タクシーの運転手は、帯広の気候や交通手段に、しきりと不満を述べ立てている。ただ、言葉の端々に地元への愛着が感じられるのも事実だった。厳しい寒さ、温泉。夏の短さ、庭園。田舎、馬。切れ切れになった帯広が、私の耳に流れ込んでくる。私の意識はすでに、新居へと飛び立っていた。
 帯広の物件を下見した時、一目で購入を決めた。その理由は、荒れ果てた庭の広さだった。ほとんどが芝生だったのだろうが、手入れのされないそれは、腰の高さまで雑草が伸びる荒地だった。そんな草の海に埋もれながらも、ボタンやタイサンボク、ツツジなどの庭木がひっそりと顔をのぞかせていた。現地の不動産屋は、しきりに手入れの行き届いていない点を気にしているようだったが、私はそんな現状が気に入ったのだった。荒れ果てた私が住むにはちょうど良い。徐々に手入れをして、美しく再生させよう。それが今後の、私の仕事なのだ。
 労働を手放した私は、そうやって自分自身を労働に縛り付けていないと不安だったのだ。
「もう少しで、やっと暖かくなるんですよ。それから短くて暑い夏が来てね、秋が来たかと思うとすぐにまた冬だ!」
 そんな運転手の言葉で私が目を覚ました時、タクシーはちょうどテニスコートへと到着するところだった。
 ライトで照らされたコートの周囲には、まだ固くつぼみを閉じたままの桜が植えられていた。タクシーのブレーキランプを見送ると、私は、私の家を探しはじめた。何度か不動産屋と尋ねたきりの家を、おそらくこれから生涯住むことになるだろう終の棲家を、あの荒れ果てた庭を探し始めた。 

それからの、一年

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