テーマ:ご当地物語 / 神保町

珈琲奇譚

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 入口のドアを見た。いつベルが鳴ったのだろう? まったく気付かなかった。外は木枯らしが吹き荒れていたから、誰か入ってくれば風でわかりそうなものなのに、おれとしたことが。急いで口元をぬぐい、両手をすすいで、そそくさと彼の前に立った。
穏やかな低音で、彼はこう注文した。
「熱い珈琲を、願えますか」
 ずいぶん丁寧な、でも少し変わった言い方だった。年はおそらく三十前後。もっと若いかもしれない。肌と瞳に張りがある。若いわりに、たたずまいには凛とした品の良さがあった。七三分けの髪にポマードを付け、シャーロック・ホームズが着ているような粋なツイードの三つ揃いに、濃紺の細ネクタイをきちんと締めている。
 彼――ホームズ氏は、興味深そうに店内を見回し、台の上に置いてあるランプに目をとめた。はちみつ色の灯りが照らすカウンターの木目を、慈しむように手のひらで撫でている。きちんと爪を切る人らしい。指先の清々しさが印象的だった。
「やあ、エスプレッソ・メーカーですか。懐かしいなァ」
 マキネッタを取り出すと、うれしそうに彼が言った。
「昔、アメリカに留学をしていた折、イタリア移民の家庭に世話になっていましてね。おかみさんが毎朝、エスプレッソ・メーカーで珈琲を淹れてくれたものです。私の珈琲好きは、おかみさんと、その器具の恩恵ですよ」
 相槌を打ちながら、私は、冷や汗を悟られぬよう、マキネッタと格闘していた。
彼の言うとおり、このマキネッタは、イタリア人の家庭では、もはやキッチンの一部となっている。誰にとっても手軽な道具であるだけに、これで本当に美味しいと言ってもらえるコーヒーを淹れるには、ちょっとしたコツと技術がいるのだ。
 ホームズ氏は、嬉々としている。まるで、誕生日のケーキが運ばれてくるのを待ちきれない子どもみたいだ。
(どうか、美味しく淹れられますように)そう念じながら抽出音に耳を澄ませ、温めたカップにマキネッタを傾けた。クリームと砂糖壺を添え、湯気を立てたコーヒーを出す。
「では、ひとつ」そう言って、彼は目の前のコーヒーに向かって威儀を正した。それから、カップを手にとり、口で迎えにいくようにしてコーヒーをすすった。
ごくりと大きな音がした。それは、私の喉の音だったかもしれない。「うん」と深くうなずき、彼は顔を輝かせた。「うまい」
 私はというと、よかったと胸をなでおろしながらも、カウンターの下に隠れてしまいたい気分だった。謙遜からではない。実は私は、このマキネッタでコーヒーを淹れるのが苦手なのだ。何も知らず無邪気に喜んでいるホームズ氏の顔を見ているうちに、つい胸の内を漏らしてしまった。

珈琲奇譚

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