テーマ:ご当地物語 / 神保町

珈琲奇譚

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 カップにコーヒーを注ぐ私は、もの問いたげな顔をしていたのだろう。注意深くソーサーを受け取った彼は、意外にも耳を赤らめ、恥ずかしそうに言った。
「タネを明かしましょう。所帯を持つ前、家内と落ち逢っていたのが、この神保町だったのです」
彼はカウンターに腕を乗せ、もたれかかるようにして、淹れたてのコーヒー香りを楽しんでいる。照れ隠しなのかもしれない。伏せた睫毛が柔らかい影を落としていた。
「そのころの家内は、まだ女學生でした。海老茶袴が、街中で異性と連れ立っているところを下手に見つかってごらんなさい、ともすれば、不品行だと後ろ指を指されてしまいましょう。しかし、二人とも本に目がないのが幸いしました。当時は私も學生身分でしたから、書店巡りであれば、交際として適正です。神保町は好都合だという寸法です」
 一口含んでから、彼は続けた。
「書店巡りにくたびれますと、どうです、珈琲を喫したくなる。ところが、カフェーと洒落たのはよいが、互いに懐が乏しいものだから、二人で一杯きりしか珈琲を頼めない。カップの手前側は自分、向こう側は家内と受け持ちを決め、ちょっとずつ、交互に味わったものです。ぎこちなく順序を譲り合ったりなんかしながらね。ある時なぞは、着ていた羽織を脱いで売っ払ったりもしました。珈琲とドオナツのためにですよ。けれども、実に楽しかった」
「着ていた羽織を?」私は驚いて言った。「いや、なかなかない話ですね。武勇伝だ」
「珍談でしょう」ホームズ氏は、懐かしそうに微笑んだ。「滑稽なのと、愉快なのとで、二重に忘れ得ぬ思い出です」そう言って、熱いコーヒーをすすり、「ああ、うまいや」と満足そうなため息をついた。
「うれしいなあ」と私は言った。一安心したからだろう、意図せず饒舌になった。
「ここで店を構えた甲斐があります。女房が言い張ったんですよ。店を持つなら、神保町だと。夫婦で店を開くのが私たちの夢だったんですが、私の方は、具体的な場所までは考えていなかったんです。町の好き嫌いより、条件を重視していましたから」 
そう話しながら私は、二つ目のワイングラスを磨きにかかった。
「他の町には、もっと安くて立地のいい物件もあったのに、女房は、てこでも譲らないんです。神保町は本の町だ、本とコーヒーは相性がいい、と言って。彼女が上京して初めて住んだのが神保町だったらしいのですが、その頃から、将来店を開くならこの町だ、この町でコーヒーを淹れるんだ、って決めていたそうです」

珈琲奇譚

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