テーマ:ご当地物語 / 岩手県大槌町

ペタンクルアーチ

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やがて彼女は大学生になった。彼女は希望の大学の海洋学部に入り、夢にむかってまっしぐらに進んでいた。ぼくは彼女とは学部も学年もおなじだが、彼女は海洋生物学科、ぼくは航海工学科にいる。海洋学をまなぶうち、ぼくは彼女の言葉の意味をしだいに知るようになっていた。たとえば世界の沈黙。海の騒音はクジラを頂点とする生態系を壊しつつある。絶え間ない資源探査の爆音や無数の船舶が航行中におこす騒音や潜水艦のソナー音などが、クジラたちの仲間とのコミュニケーションやオスだけがいざなう歌声をかき消している。クジラたちのあいつぐ死によってようやく人間たちはそういった海の騒音を意識しはじめた。爆音よりはるかに影響が少ない低音波による探査。接水面積を少なくすることにより騒音や水の抵抗が減り低燃費までも実現させた静かな船。船舶の速度制限や生息域をはずしたルート。こうしていまはさまざまな方策がとられてはいるが、やはりまだ人間の経済や安全が優先されている現状にかわりはなかった。彼女のふるさとの山がそうであるように、クジラは守るべきもののみちしるべであるようだった。 
キャンパスから見渡す空はすっかり夏模様になっていた。真っ白い山並みのような雲が、青い絵の具だけをかさねたような深みのある空に浮かんでいた。するとちょうどむこうから彼女が歩いてくるのが見えた。すれ違いざま、ぼくらはいつものようにかるく会話を交わす。
クラブ? とぼくが言う。
バイト。と彼女が答える。
ぼくらは立ち止まらずにただそれだけの言葉をやりとりして、そして離れていった。
高校も彼女と一緒だったが、クラスが違っていたので顔を合わせる機会はあまりなかった。彼女とはじめて会話をしたのは、高二の春のときの九州への修学旅行がきっかけだった。ひとりで行動していた彼女に、小学校以来ふたたび一緒の学校になった幼なじみで彼女とはクラスメイトだった寺岡が声を掛け、それからというもの自由時間のときにはいつも決まって三人で行動するようになっていた。おもにあいつと彼女が話し、ぼくは聞かれたら答えるといった程度で、ほとんどはふたりの会話に相づちを打ってばかりの状態だった。彼女とふたりだけのときはこのように、ただ挨拶めいたものを一往復させるだけの、いまもあの頃とちっともかわらない関係のままでいる。 
でも今日はふりかえって彼女の背中にむかって心の中でつぶやいた。海がおだやかでありますようにと。明日は彼女の御両親の月命日だった。

ペタンクルアーチ

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