テーマ:ご当地物語 / 岩手県大槌町

ペタンクルアーチ

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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クジラの歌が聴こえる。
月が美しく光っている真夜中、世界に沈黙が訪れたそのなかで、深海のような闇につつまれてすうっと瞳をとじたとき、静寂のはるか彼方から語りかけるようにその歌が聴こえてくるのだと彼女は言った。なにかを思い出そうとしても、なにを思い出そうとしてるのかさえわからなくなってしまっていたわたしに、その歌は大切なものを思い出させてくれたのだという。それはもしかしたら、生まれてくるときに神様と交わした、約束みたいなものなのかもしれないというのだった。野崎さゆり。それが、ぼくが通う藤沢市内の中学校に転入して来たときに、彼女が黒板に小さく書いた文字のまま瞼にやきついている彼女の名前だった。
十月の昼下がり、雨あとがまだ残る教室の窓からは、うららかな秋の陽ざしが差し込んでいた。なんとも言えない心地よいまどろみのなかで、ぼくは徐々にうとうととしはじめていた。先生から次の生徒の名前が呼ばれ、彼女はピアニストが最初に弾くひとつの音で聴衆をひきつけて魅了するように、どこまでも透きとおったきれいな声でハイと返事をして立ち上がると、ふにゃふにゃになっていたぼくの意識のすべてをすぐさままわれ右させて彼女へと集中させた。それから彼女はたんたんと、将来の夢というテーマで書いてきた原稿用紙を読み上げていった。震災で両親を亡くした彼女はいま、ぼくの住むここ神奈川県の藤沢市で彼女の父方の親戚の家で暮らしている。彼女の夢は生物学者になることだった。海と人間との豊かな関係を見つめ直し、これから立ちはだかるであろう様々な問題に、海洋生物学の分野から挑んでみたいと言うのであった。なぜならそれは運命だからだと。彼女はなぜ運命なのかということを、生まれ育った、そして震災に直面した、岩手県の大槌町という海辺のまちから見える山に残る伝説になぞらえて説明した。ひとつは、そのまちには鯨山(くじらやま)とその南に対をなすように位置する小鯨山があって、かつて大津波のときに雄のクジラと雌のクジラが押し寄せ、それぞれの山にとどまったというもの。それともうひとつは、そのむかし流行病が発生したときに、そのむらの浜辺に打ち上がった大きなクジラを食べたら元気になったというもの。さらにそれらに、その山はその特徴的な山容から、三陸沖を航海する船の羅針盤の役割を果たしてきたという地理的かつ歴史的な背景も付け加えた。彼女はこれらの事柄からつぎの結論へと答えを導いていった。とうぜん彼女の先祖も病がはやったときにそのときの特別なクジラを食べているわけだから、わたしのDNAのなかにもそれはあるはずだし、わたしにクジラの歌が聴こえてくるのは、恐らくクジラのDNAのなかにもわたしの家系のものが入ったからだと主張するのであった。つまりはそういうことで、その流れから彼女はより具体的に、わたしの父か母かあるいはふたりともがクジラの血と肉になったことをその現象がなによりも証明しているのだという、彼女なりの独特な見解をついには述べるに至ったのである。そのことを聞いて、静まり返ったというよりも、凍りついたといったほうがあっているような、そんな空気が教室内にはりつめていた。そうして彼女は、まわりのそうした反応を吟味しているかのようにたっぷりと間をおいてから、したがって海洋生物学がわたしの使命であり、聴こえてくるクジラの歌は生きていく羅針盤であるとともに、それは父か母との、あるいはふたりとの絆のようにも思えてならないのだという、自分の身におこっている一連の出来事からのメッセージを、そう結論づけて着席したのだった。

ペタンクルアーチ

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