ひとり暮らし
いいお天気だった。初夏というのはどうしてこうも陽射しがキラキラと輝くのだろう。街路樹も、アスファルトも、古びた家々さえも、太陽の光をこれでもかと反射して眩しいくらいだ。店の外のテラス席では、ハンバーガーを食べ終えた若いスーツ姿の男性が、リラックスした様子でいかにもおいしそうにタバコを吸っている。
こうしていると、夫がいて、受験生の子どもがいて、自分が家庭の主婦だということが遠いことに思えてくる。自分はどこにも属していなくて、ひとりで、自由で孤独なんだという気がしてくる。そう思うと、浮き足立つような、心細いような、息苦しい解放感におそわれて私はうっとりする。この気持ちを味わいたくて、私はひとり暮らしをするのだろう。寂しさは自由の証しだ。
「お待たせしました」
さっきの男の子が紙袋を手に立っていた。ぼんやりしてたのだろうか、覗き込むように私を見ている。
「あ、すみません」
店名の入った茶色の紙袋を受け取って席を立つ。源五郎、と書いた名札が目に入った。
「ありがとうございました」
源五郎くんはにっこり笑って深々とおじぎをしてくれる。
私は、香ばしいお肉の匂いのする袋を提げて、源五郎というのは名字なのか名前なのかどっちなのだろう、とぼんやり考えながら木漏れ日の公園を横切って部屋に帰る。
ポットにお湯を沸かしてティーバッグの紅茶を淹れ、ベーコンチーズバーガーとフレンチフライポテトを食べてしまうと、とたんに眠気が襲ってきた。外はあいかわらず眩しいくらいの青空で、こんないい天気の日に昼寝をするのは、なんだか人として罪悪感があるぶん、よけいに気持ちいいものだ。仕事は夜やればいいか、とつぶやいて、私は座布団をふたつ並べたところに寝転び、ブランケットを引き寄せた。
夢を見た。
小さな四畳半の部屋は薄暗かった。カーテンを閉めているからではない。夕方だからだ。夏の、じんわりと肌にまとわりつく湿気。太陽が落ちたのに、空はまだ薄青く、部屋の中では青がゆっくりと墨色に変わりつつある。夜の気配を感じて、もう帰らなくちゃいけない、と気が焦る。夕飯の材料を買って帰って夫と子どもにごはんを作らなくちゃ。ふと、自分が服を着ていないことに気づく。私はたたみの上にぺたりと座って、裸の肩にかけられたブランケットは今にもずり落ちそうだ。とたんに心細くなる。部屋を見渡してもなにもない。あるのは電気ポットと、小さなテーブルと座布団とブランケット。服も下着もどこかにいってしまった。これでは家に帰れない。部屋はどんどん墨色に覆われていく。周りのものの輪郭が滲んで、目をこらさないと見えなくなってきた。私は明るさを求めて窓際に移動する。ブランケットを体に強く巻きつけて。半分あいたカーテンを全部開けようとしたとき、カーテンの陰に誰かがいることに気づく。日焼けしてうす茶色になっていたこの部屋のカーテンは、いつのまにかビロードのようなもったりとした赤いカーテンに変わっていて、私はドキドキしながらその柔らかく滑らかな生地に手をかける。そこには源五郎くんがいる。源五郎くんはいつもの赤と白のストライプのエプロンではなく、タキシードを着ている。私を見て、あの笑顔でにっこり笑う。とても感じよく。強く巻きつけたはずのブランケットはいつのまにかほどけてなくなっている。私は裸で、何も着けていない。恥ずかしくてたまらないが、源五郎くんはちっとも気にしない様子で、相変わらず感じのよい笑みを浮かべて私を見つめている。それから源五郎くんがわたしのあごに軽く手を添えキスをする。すごく柔らかいキスだ。うっとりとして目を閉じる。私たちはとろとろにとろけるような赤いカーテンに包まれて長いことキスをしている。静かに唇が離れたとき、目を開けると源五郎くんはいなくなっている。部屋には蛍光灯のしらじらしい明りがついて、私の裸のからだをあからさまにしている。柔らかく頼りない胸。少したるんだ白いおなか。玄関ドアが開いて何人かの男女が入ってくる。中学のときの同級生や、サークルの仲間、会社勤めをしていたときの先輩、子どもの友達のお母さん。かつて親しくしていたひと、大好きだったひと、お世話になったひと。それなのに、いつのまにか離れて行ってしまった人たち。彼らはわたしの部屋に無遠慮にあがりこみ、夢中でなにか話をしている。小さな部屋の中で、彼らの声はただのざわめきとなり、なにを話しているのか私には聞き取れない。誰も私に気づかない。私が裸であることにも、私がいることにも。私の部屋で、私を守ってくれる私だけのスペースであるこの四畳半の部屋で。私は彼らの前で、裸で、無防備で、存在感もなく、ひどく情けない。
ひとり暮らし