東京クロワッサン
「専門学校いくって言ってたけど、やめる。大学にいく。東京にでる」
東京にでる、のときに母親はいきなり立ち上がって、2秒ぐらい経ってからまた座り直した。僕は相変わらずビクッとしたけど、声はあげなかった。母親は、しばらく何かを考えたように天井を見上げたが、何もなかったかのようにテレビをちらっと見て、もう一度僕に向き直った。
「そうしたいなら、そうしたら?」
「え…理由とか聞かないわけ?」
「聞いたところで、なんか変わるの?そうしたいなら、そうしたらいいって言うのが、母親の役目だと思ってた」
なんと言っていいかわからず、僕はしばらく無言のままでいた。ありがたいやら、寂しいやらでなんとなくお腹が減っていた。
机の上には、クロワッサンが置いてある。この時間にクロワッサンがあること自体おかしいとは思いつつ、そんなに好きではないけど急激に食べたくなった。
「これ、誰のクロワッサン?」
「いいよ、食べて」
母親には、なんとなく見透かされている感じがした。食べたいなんて言ってないんだけどな、と口にしながらも、時間が経って水分を含んだ柔らかな生地を口に運ぶ。迷いとか希望とか、子供とか大人とか、雨とか晴れとか、甘いバターと一緒に全てが織り込まれている気がした。あんまりいい感じではなかったけど、どことなく心がほどけていった。
「…ありがとう」
「なにが?」
「いや、別に」
毎日の学校帰りに、何の気なしに座っていたベンチや、仲間と一緒に座り込んで怒られたどん詰まりのT字路。すさまじい悪臭を放つ養鶏所前の自販機や、曲がって役に立たない道路標識。近くの学校から聞こえてくる黄色い歓声と、金属バットが放つ音。バカみたいな笑い声と、喧嘩してぶつかり合った時の怒鳴り声。ファミレスでの下世話な話も、怖い先輩の悪口も、付き合っている女の悪口もノロケも。僕は、たぶん、そういうものが好きだった。そういうもので溢れた街が大好きで、だからここに留まっていられる“何か”を探していたのかもしれない。
それでも僕は、18歳になる。ヒッピーも、いつかは苦しくなってスーツを着る。
大好きだから、離れるんだ。それ以上も、それ以下もない。きっと、もっと好きになるために、僕はこの街を出ることを決心した。
「ねえ」
広い大学の講義堂の中で、突然後ろの人に話しかけられた。いや、僕に話しかけているんだろうか?この授業、完全に自分の好みでとったから、友達はいなかったはずなんだけど…
東京クロワッサン