テーマ:一人暮らし

東京クロワッサン

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「あれ、これ誰のクロワッサン?」
 当たり前だけど、誰からも返事はない。
 たべるよー、と言いながら、重厚かつ綿あめのように軽いクロワッサンを手に取り、僕は砂糖と塩を一緒に食べるみたいな複雑な気持ちと共に、その至幸のバターの風味を楽しんだ。もちろん、クロワッサンは毎回同じものと決まっている。お気に入りの宮益坂下のパン屋で、毎日180円と引き換えに翌日のこの気分転換を買って帰るのだ。
 「じゃあ、行ってくる、よ」
 当たり前だけど、誰からも返事はない。
 今日は雨降んのかねー、と言いながらビニル傘を手に取りいそいそと家をでる。僕が住むのはアパートの二階だから、ドアを開けた瞬間に邪魔するものなく空が広がっている。どんよりしつつも、向こう側は青空が見え始めていた。やっぱり置いていくか、とビニル傘を玄関に放り投げて、出発の儀式もそこそこに僕は大学に向けて走り出した。
 思い立ってから死ぬほど勉強して、なんとか第一希望の大学に入ることができた。その少し前までは美容師になりたい、だなんて周りに豪語していたわけだから、僕が大学に進学をすると報告したときの周りの反応は、想像以上にやかましくて少し笑えた。
 正直言って、僕も他人事みたいに驚いていた。当時17歳だった僕が、まさか今のこの生活を思い浮かべただろうか?慣れ親しんだ街をでて、東京に一人暮らしも始めた。できない料理も、できないなりに形になり始めた。新しい友達も、そこそこできた。それなりに、充実した毎日を送っている。
もちろん、寂しくないと言えば嘘になる。でも、後悔はしていない。



 高校時代に住んでいたのは、一番背の高い建物が屋上駐車場付きの2階建スーパーだったくらいに、ほとんど何もない街だった。夕方がやけに似合う街で、バスロータリーのベンチや駅の改札に続く階段ですら、オレンジ色に染まるとなんだかドラマのワンシーンのような美しさを孕んでいた。
地元の友達はいまも実家暮らしが多くて、高校はやめたけど立派に働いているやつがたくさんいる。そんなやつらといつも一緒にいたから、いつしか僕もなんとなく働くことを意識していたのかもしれない。高校をでたら、僕は地元で働くもんだとぼんやりイメージしていた。それと同時に、それでよいのかわからず不安感に苛まれる日々だった。とにかく、ここでみんなと楽しくやっていたい。でも、本当にそれでいいのだろうか?
 いつも、地元のやつらは楽しそうに見えていた。毎日好きな事をやって、辛い事も大変な事も、一つもないように見えていた。だから、僕も少しずつ右に右にそれていきながら、毎晩寝る前に当たり前のように呪文を唱えていた。

東京クロワッサン

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