6番レフト
「いらっしゃいませ」
店内にはカスミ君だけがいて同席している女性と楽しく話をしているようだった。僕はこの店に一度だけ来たことがあることを、このスナックの建物の前に立った時に思い出した。
「髪切ったね」
「うん、ちょっと気になってきてたから」
カスミ君は横の女性の肩をポンと叩き耳打ちをした。その女性は僕の方を見て軽く微笑み、席を立ってカウンターの奥に消えていった。
「これでお酒作れるかな?」
「そうだね。水割り、ウーロン茶、炭酸もある」
僕は彼のグラスに氷を足してサントリーの角瓶を適量と炭酸を静かに注いでいった。マドラーをグラスの中に入れ、軽く上下に動かして彼の前のコースターに置く。彼はそれを一口飲んでお酒だねと言った。
「結構飲んでるの?」
「これで四杯目だったかな。タクミの店でジントニック飲んだよ。俺しか客がいなかった」
「今日はこんな雨だからね」
「なあ、一つ訊いてもいいか?」
「いいけど、なんか緊張するね」
「どうして野球辞めた?」
僕はうーんと少し考えてから、「上手くない、センスがない」と歯切れ良く答えた。
「どうしてそう言い切れる?」
「カスミ君にはわからないかもしれないけど、そういうのはわからなくちゃいけなくなってくるんだよ。色んなところからサインが出るんだ。なんか違うことやれって」
「頑張って練習してる奴もいるだろ?」
「そうじゃない上手くてセンスのいい奴もいる」
「確かに」
「自分と向き合うのがとにかく大変なんだ。できる人に合わせちゃうと」
それからカスミ君は中学の野球部のときの話を始め、それは僕のことについてだった。彼の話によると僕の打撃の成績がチームで一番良く、それを当時確認したという。チームで挑む最後の公式戦の前、カスミ君は監督からチームのスコアブックを借りて、これまでの対戦相手のことや自分のチームのことを自分なりに分析した。彼はチームのエースだったが、捕手の森下のことを、というよりも彼と同じレベルでものを考えられる人などチーム内には一人もいなかったんだと思う。それは監督、コーチを含めて。カスミ君は一人、試合で受けた印象を確認するようにチームのスコアブックを見ていった。そしてすぐにチームで自分以外でヒットを重ねている人物がいることに気がつき、新チームになってからの打撃の成績を自分と比較してみたという。安打数、打点、打率、盗塁数までも打席数の少ない僕の方が彼の数値よりも上だったらしい。
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