テーマ:一人暮らし

五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。

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「家族構成を聞いてるんだよ。『なんとか藤さん』の」
 自分の名前が『なんとか藤さん』になったことを静かに認め、僕は返答を試みる。
「父、母、それから二つ年上の姉がいる」
「みんな、元気ですか?」
「そうだね。元気だよ」そう言って僕はソフトクリームを舐めた。どうして嘘をついたのかはわからない。そうだったらいいなと心から思ったせいかもしれない。
「私の家はね、父、母、弟。みんな仲良し。理想の家族。でもね、出てきちゃったの」
 僕は彼女を見つめる。彼女はそれ以上、語ろうとしない。だから僕もなにも聞かない。
「あとペットがいるの。うさぎ」
「うさぎって本当に人参食べるの?」
「食べますよ、本当に」
 彼女には訛りがあり、無理して標準語を喋っているような印象があった。気のせいかもしれない。僕の目に見えるのはソフトクリームを舐めている彼女だけで、彼女の頭のなかまでは覗くことができない。彼女が僕の嘘を見抜けないのと同様に。
「みんな元気だよ」僕はもう一度そう言葉にした。「父も母も。そして僕は広い角部屋で一人暮らしをしている」
 目の前には夕暮れが広がっていて、公園には僕たち以外誰もいない。子供達は五時のチャイムで帰ったのだろうか。僕たちが子供の頃と、今もルールは変わらないのだろうか。彼女はなにも言わない。なにも言わずにソフトクリームを舐めている。僕は彼女を見つめる。
 五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、と僕は思う。
「君の名前は?」
 そう尋ねると、彼女は驚いたように僕を見つめた。「まだ言ってなかったっけ」とでも言うように。それから開こうとした口を一度閉じ、一瞬目を伏せて、なにかを決めたように僕を見て言った。
「さおり。中島さおり」
「中島さおりさん」
 僕はその名前を繰り返す。


 引越しの前日に、母は僕を玄関に呼び出した。その日、姉は仕事で、父は病院の検査に行っていた(その検査で父は癌が見つかった)。家で、久しぶりに僕は母と二人きりだった。
「荷造りやっちゃわないとなんだけど」
 二人でいることが恥ずかしくなり、僕は早くその場を立ち去りたかった。母は玄関に立ったまま、ドアを見つめていた。それは古びた木目のもので、覗き穴の部分に蝶のデザインが施されている。きっと、どこにでもあるドアなのだろうと思う。
「かあさんがね、初めて実家を出たのは十九歳だった。少しでも早く大人になりたくて。出て行ったの」
 母は小さな街に引っ越した。大事に育てられた母にとって、それは大きな冒険だった。引っ越す前日に赤いマニュキュアを塗った。私は大人だ、きっとやっていける、そう暗示をかけるように。

五時のチャイムの終わりと共に現れた女の子、のこと。

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