テーマ:お隣さん

文鳥

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メンチカツを作っていた。油が手に跳ねたが気にならなかった。もうすぐふたりが帰ってくる。冷蔵庫で冷やしておいたポテトサラダを取りだそうとしたとき、電話がなった。
「もしもし」
「あぁ、おれだよ」
「どうしたの」
「実はさぁ、急に仕事が入っちゃって」
「そう、それで、何時頃帰れそう?」
「いや、まだ見通し立たなくて、今日、泊りになるかも」
「そう、泊りなの」
「あぁ」
「そう」
どっ、どっ。ひとつずつ、メンチカツがゴミ箱に落ちていく。どっ、どっ。アドレナリンが出るのがわかった。それでも、メンチカツをふたつ残しておいた。
[お母さんは頭が痛いので寝ます。お父さんは今日は帰ってきません。台所にラップをしたメンチカツがあります。もの足りなかったら、レトルトのカレーが棚にあるのでご飯にかけてください。冷蔵庫の中にポテトサラダが入っています。食器はそのままにしておいて。あとで洗います]
書き置きをして、部屋にこもった。
夜がまだ明ける前に目が覚めた。隣のベッドは空いていた。クローゼットの奥からスーツケースを取り出して、荷物を詰めた。荷物は、自分で思っていたよりも少なかった。下着類と衣服、必要最低限のものを詰めてもまだ、スーツケースには充分空きがあった。必要最低限のものしかなかった。軽かった。
スーツケースを持ってリビングに降りると、机の上に書置きがあった。
[おいしかったよ。ありがとう]
食器を洗おうと台所へいくと、シンクに食器はなかった。あの子が洗ってくれたんだ、でも、これくらい当たり前のことだと自分にいった。ゴミ箱のなかのメンチカツを見て決意を固めようとした。
息子のためにお弁当を作っておかないと、でも、私は出ていくのだから、お弁当なんてどうでもいいじゃないか、卵焼きを作りながら思った。
家を出た。軽いスーツケースがさっきより重たい。駅へとつづく坂道を下っていると、スーツケースの車輪は、雲が動く音みたいにうるさかった。袖に、お弁当のにおいがついていた。明日から、だれがご飯を作るのだろう。
私はまだ、文鳥の名前を知らない。

 *

「なにそれ」
「文鳥」
「どこからもらってきたの」
「別に、関係ないだろ」
 息子が妻にそういうのが聞こえた。
「おれの部屋で飼うから」
 なにかいった方がいいのだろうとは思うが、息子の妻への態度は、反抗期というより照れのようなものかもしれないと思ってなにもいわなかった。仕事から帰ってきたばかりで疲れているということを言い訳にして、なにも口を出さなかった。

文鳥

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