テーマ:お隣さん

いまはまだねむるこどもに

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読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「電話がかかってきて、隣の部屋に行ったじゃない。お母さんからだったでしょう。どうやら長電話になりそうだったから、その隙に、自分が落書き帳の余白にメモされる身の上を脱したかどうか、知りたくなったの」
「――結果、どうだった?」
「――ダメだった。それでも、諦められなかったのね、当時は。――じゃ、次はあなたの番」
 そう言われても彼は思いつかないだろうが、私は聞くつもりで待っている。何度も言うが、こんな真剣な様子は、まったく久しぶりのことだ。
 いまさら彼が私に言うことがあるだろうか。――なれそめの頃を思い出してみると、あれは***大学の講堂だった。今では日本一の詩人と謳われている、ある詩人が朗読会と講演をしに来た会場で、パイプ椅子の隣り合ったのが彼だったのだ。私が詩なんかそっちのけで、書類ケースを机代わりにして、食料品の買い物をメモしていたとき、彼がひょいと私の方を見たのだ。私も、彼の顔を見た。
「――じゃあ、言うか」彼もやっと思いつくことがあったらしい。「はじめてのデートでの夕食は、隠れ家的なインド料理店だったろう。君がトイレで席を外したあと、人の好さそうなインド人の店主が、僕に、美しい奥さんですね、だなんて言ったんだよ」
「――ウソでしょう?」
「――ウソじゃないさ。あのときの食事が終わる頃には、不思議な、妙な気分でね。ひょっとしたら結婚するのかな? なんてね。――それで、うっかりしたんだろうね」



 3回目の夜が明けた朝、――携帯で調べてみると、電力会社から連絡が入っていた。予定よりも早く『計画停電』が終わるのだという。私は、拍子抜けした。せっかく夫のためにエビのクリームグラタンを作ってあげようと思っていたのに。なんだか、意気込みが急に萎えてしまった。暗くなるのと明るいのとでは、どうも勝手が違うようだ。
 7時半に帰宅した夫が、私から『計画停電終了』の報告を受けて、
「これでゲームも終りだね」
 と言った。
 しかし、私は目を上げて、化粧姿のまま、言った。
「……でも、その気になれば、電気はつけないで、ロウソクにしたっていいでしょう?」
 その夜、夫と私は、ふつうに食事を始めた。ありがとう、とも、おいしいわ、とも、言わなかった。ロウソクの灯り一つで暗くしたままの部屋で、ただ黙ってお互い食べていた。
 一本目のワインを飲み終わり、二本目に差しかかった頃、ロウソクも消えかけていた。
そのとき、私はロウソクを吹き消し、電灯のスイッチを入れた。

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