テーマ:一人暮らし

おかえりなさい

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 その人は線路沿いの家に住んでいた。
だから電車が通るといつもその音と揺れが一定間隔でやって来る。
その人と一緒にいるとそれは耳障りではなくて不快でもなくて
生活の一つとなっていた。

私は安心してそこにいた気がする。

 寒い冬が終わって、桜が散ったある時、暖かい陽光に誘われるように私は家を探すことにした。さしあたり、住居に関しては今の生活に不満はない。適度な広さと日当たりと静かさ、利便性。どれを取っても私が今すぐに引っ越しをしなければいけない理由も必然性も恐らくないはずだ。だからこれを気まぐれと言えばそうなるし、実際に私もそう思っていた。とはいえ、こうして不動産屋の前で物件を見ていると自然と眺めるだけでは済まなくなっている自分が不思議だった。
 時折、良いなと思うものは手帳に住所を書き留めたり、途中で休憩のために入ったコーヒーショップで携帯から周辺情報を調べたりして、いつの間にか私は「真面目に家を探す人」になっていた。休みの日とあって、街はそれなりの人出があり、それをかいくぐりながら、不動産屋の前を一軒ずつ見ていくこと、さらにその中からいつの間にか精査をし始めようとしている自分にふと「可笑しいな」と独り言を言いながら、でも確かに今、私は自分がこの状況を楽しんでいることを自覚していた。
 その日は結局十軒ほどの不動産屋の前に立ち、六件ほどの物件の詳細を私は手帳に書き込んで帰宅した。鞄の中から手帳を出して、もう一度それらを眺めてみる。住所や不動産屋の名前とともに様々な情報が書いてあるそれを見ながら、私は麦茶を飲んでため息をついた。
 夕方、この部屋は窓を開けると適度な風が入ってくる。
私は汗ばんだ身体をその風に向けながら、休息を取った。

 電車の音を恋しいと思った。

 翌日になると、私は家探しのことなど忘れて仕事をしていた。「二つ以上のことは同時にできない」が私の信条で、「仕事」となれば、それを優先してしまう。このことが原因で様々な問題が過去にあったような気もするが、それについて深く考えるのは正しくないように思われるので私は忘れることにしている。
 勤め先のフラワーショップでは、アレンジメント教室が定期的に行われていて、月曜日は私が担当を務める日だった。そのため、私は準備に追われていた。花材を何にしようか考えながら目についたフリージアに手を伸ばしてみた。黄色い花芽に直角に曲がった茎、アレンジするのには立体感が出ていいかもしれない。他の花材はボリュームのあるものにしていこうとヒヤシンス、チューリップも加えていく。シロタエギクも入れるとガーデン風になるかもしれないとイメージを膨らませていく。

おかえりなさい

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