私とタツヤとノムラ君
その瞬間、ノムラ君の表情は凍てついた。
「俺、今、コトミって言いました?」
「ええ。そのメスの名前ですよね?」
ノムラ君は、みるみる赤面し、俯いてしまった。やっぱり気の毒な事をしてしまったかもしれない。
「コトミは、会社の帰りに、マンションの前の通りで偶然見つけたんです。でもほら、この辺、避難させるにも林とか、公園とか全然ないじゃないですか。放っておけばよかったんですけどね。何となくここまで持って帰って来てしまって」
「私もほぼ同じような状況です。何となく飼い始めてしまったんですけど・・・」
「日に日にかわいく思えて来た」
と、ノムラ君は私に同調を求めた。名前つけちゃうくらい愛着が湧いても仕方ないですよね、と。勿論気持ちは痛いほど良く分かる。私は、ええ、と素直に頷いた。
「あ・・・。でもすいません。お宅の大事なコトミちゃんを、その・・・。ウチのがこんな」
いえいえ、とノムラ君はかぶりを振った。
「コトミはきっと、ものすごく嬉しかったんじゃないかって思うんです。こんな小さな箱で一人寂しく暮らしていたら、ある日、突然王子様が現れたんですから」
そうかもしれない。タツヤもコトミちゃんも、雑木林から離れてしまい、私たちに拾われた時点で、樹液に群がり、異性と出会い、そして種を残すという、カブトムシとしての月並みな幸福は失われた筈だったのだ。そう考えると、彼等の出会いは奇跡的としか言いようが無く、目の前の光景は、とてもロマンチックなものに思えた。
こんなにじっと見てたらかわいそうかな。そう思いつつも、私とノムラ君は、愛の行為にふける彼らを、いつまでも眺めてしまった。
結局、タツヤの事は、そのままノムラ君の虫かごで面倒を見てもらう事になった。タツヤが、全くコトミちゃんから離れようとしないからである。私は、二日にいっぺん程、ノムラ君のお宅にお邪魔し、タツヤの様子を確認させて貰った。タツヤの面倒を見て貰っているお礼に、ノムラ君にはいつも缶ビールとかスイカを差し入れたが、別に「ちょっと一杯やりましょうか」などと誘われることもなく、私は文字通りタツヤの健在を確認すると、十分程でノムラ邸を後にするのだった。
お盆も過ぎ、ギリギリと暑苦しい油蝉の鳴き声が、カナカナと涼し気なヒグラシのそれに置き換わった頃。休日だというのに、朝から部屋で映画のDVDを見ていた私は、ノムラ君からの電話に思わず身を固くした。最初に彼の部屋へお邪魔した際、既に連絡先を交換していたが、それはもっぱら、私が彼の部屋を訪ねる前、一言断りを入れる為だけに使用されていたのだ。彼からの連絡は初めてだった。
私とタツヤとノムラ君