テーマ:一人暮らし

私とタツヤとノムラ君

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 全ては注意を怠った自分の責任だ。頭では分かっている。でも、何で出て行っちゃうの?広い部屋も用意してあげて、ご飯もちゃんとあげて、体だって綺麗にしてあげて。私の何が不満だったっていうの?マンションの前の通りや、近所の公園、思い当たる場所を片っ端から捜索しながら、私の中で、抑えようのない怒りと悔しさが湧いてきた。
「タツヤー!」
 何て愚かなのだろう。事もあろうか、私はカブトムシの名前を叫んでいた。
「タツヤー!どこなの?」
 彼が私の呼びかけに反応する事など有り得ない。それでも、私は叫ばずにはいられなかった。こんな別れは有り得ない。絶対に認めない。
「タツヤー!」
 汗粒が頬を伝い、顎から滴り落ちる。
憎らしい程晴れ渡る空の下、蝉の鳴き声だけが虚しく響き続けた。
 
 精も根も尽き果てた私は、薄暗くなった部屋の中で、ぐったりと座り込んだ。着の身着のまま、帽子もかぶらずに炎天下の中を歩き続けたせいで、体は火照り、頭はボーっとする。
 遂にタツヤは見つからなかった。どこか、遠くの雑木林へ飛び去ってしまったのだろうか。それとも、違う人間に拾われ、今頃どこかの屋根の下で餌を頬張っているのだろうか。
 もぬけの殻となった、ケースを見つめる。
カブトムシの人生は短い。夏の終わりには、大抵の成虫はその生涯を閉じる。タツヤにも残された時間は余りなかった筈だ。ある朝、ケースを覗いたら、彼が動かなくなっている。そういう日がいつ訪れてもおかしくないと自分に言い聞かせ、ある程度の覚悟は決めていたつもりだった。
だが、こういう思わぬ形で、彼が去る事は想定外だった。悲しみに至るにはまだ心の整理がつかず、疲労と脱力感で、私はいつまでもその場を動けなかった。
と、不意に玄関の呼び鈴がなった。エントランスのオートロックからでは無い。私の部屋のインターホンを直接押している。郵便や宅配業者ならば、エントランスから連絡をする筈だ。誰だろう。警戒しながらも私はインターホンの受話器を取った。
「はい」
「あ、すいません。俺、隣のノムラです」
私は動揺した。何故彼がウチに?
「あの、つかぬ事伺いますけど・・・。サトウさんのお宅でカブトムシって、飼ってます?」
私の胸はドキリと高鳴った。
「はい、飼ってたんですが・・・。実は今日逃げられてしまって」
「やっぱり」
「え?」
「立派なオスですよね?実は今、ウチにいるんです」
私は受話器を置くと、玄関まで駆けて行き、扉を開けた。私の目に、黒いTシャツの胸に描かれた英語の文字が飛び込んで来た。半歩下がり視線を上げると、そこには少し驚いた表情を浮かべるノムラ君の顔があった。

私とタツヤとノムラ君

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