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十月の訪問者

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この娘に触れるのは、何年ぶりだろう。
覚えているよりも、ずっと大きな手だった。
「できたてのご飯をテーブルに並べて、食べた後のお皿を洗って。洗濯物を干して、乾いたらアイロンをあてて。佐保の部屋に掃除機までかけて……」
「……うん」
「あなたが大切で仕方ないから、お母さん、あなたのために何でもしてあげた」
佐保の掌にぎゅっと力がこめられる。
「それが愛情なんだって、信じてたの」
でも、ホントは。
……ホントは、それじゃいけなかったのよね。
声に出さずに、心の中で呟く。
「そのおかげで、すごく苦労させちゃったみたいね」
掌を優しくなでる。
「でもね、今日はお母さん、とってもうれしかった。この部屋を見て分かったの。あなたが、毎日楽しく暮らしてるってことが」
ずずっと佐保が鼻をすする。
「それだけで、お母さん十分」
「……そうなの?」
「娘が元気で楽しく生きてる。それ以上の望みなんてないわ」明子は微笑む。「親なんて、そういうものよ」

 風が窓から吹き込み、頬を撫でる。夕方の気配をはらんで、しっとりと冷たい。
腕時計を見ると、午後三時半だった。
「そろそろ帰らなきゃ」
握っていた手をそっと放して、明るく言った。
「もう帰るの?」
「父さん、六時には帰って来るはずだから」
「お父さん、元気にしてる?」
「元気、元気。お母さんね、今夜はお父さんのために、ごちそうつくろうと思って。茄子の煮びたしでしょ、それに海苔入り出汁巻き卵、酢豚、ブロッコリーとほたてのマヨネーズ和え、アジの南蛮漬け。あと、そら豆のごはんも」
紙袋の中身を思い浮かべ、次々に名前を挙げる。
「わ、ホントにごちそうね。何かのお祝い? 特別な日だっけ?」
「うーん、一人娘の門出を祝して、ってとこかな」
「なあに、それ」意味が分からないと笑う佐保に、明子は真剣な表情をつくって言う。「佐保、あなたもきちんと食事をつくりなさい。コンビニ弁当ばかりじゃダメよ」
「うわあ、バレてる」
おどけた声の調子に、明子は思わず苦笑いを浮かべる。
「レシピをいくつかメモしてあげるから、時間のある時に挑戦してごらんなさい。きっとできるから」
「えー、できるかなあ」
「できるわ、きっと。佐保なら」
「……頑張ってみる」
あ、お父さんによろしく伝えてね。照れているのか、ぶっきらぼうに言う。
「伝言じゃなくて、直接会いに来ればいいじゃない。お父さん喜ぶわよ。今日だって、休日出勤じゃなかったらなあって、悔しそうだったもの」

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