テーマ:お隣さん

ナイト

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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仕事中だけは気が張っているせいか、どうにか悲しみに捉われずにすむ。せいぜいランチを共にするくらいしかない同僚たちにこの気持ちを分かってもらおうなどとは思わない。むしろ同情の言葉などかけられたりしたら逆上してしまいそうだ。あんたになにがわかる。そんな言葉を吐き捨てるにちがいない。だから気取られてはならない。明るくさっぱりと振舞う。今まで自分がどのような人物だったのか思い出しつつ演じる。
ナイトは真っ黒な猫だった。夜の闇のような色にちなんでナイトと名付けた。ナイトにはただ一箇所だけ喉元にスポットがあった。白抜きのハート型だ。そんな愛らしい模様とは裏腹に、警戒心と負けん気が強い猫だった。宅配便などで誰かが玄関先に現れようものなら、物陰に隠れるどころかサッと私の前に立ち、かぎしっぽを高く掲げ、背中の毛を逆立てて威嚇するのだった。ナイトの唸り声は犬のように低い。訪問者はいつも逃げるように去っていく。緑の瞳を凛々しく光らせる彼は、番犬顔負けの猫で、まさしく私のナイト騎士だった。

出勤しようと戸締りをして、エアコンのリモコンに伸ばしかけた手をゆっくり握りしめる。またやってしまった。もう留守中に冷房をかけておく必要はないのだった。涙が溢れてくる直前の膨らむ目頭をグッと指で押さえ、天井を仰ぐ。泣いている時間はない。どうにか元の場所に戻ってくれた涙と悲しみを確認すると、私は駅までの道を急いだ。
ゴミ集積場の烏避けネットをかけ直す大家さんが私に気付き「南さん、おはようさん」と声をかけてくる。
「おはようございます、北川さん」
「最近あんたんとこの黒猫を見かけないねぇ。やっぱり猫も暑いと外に出たくないもんかね」
完全室内外を目指してはいたが、ナイトはよく外出をした。病気や怪我の心配はあったが、いつも必ず私が寝るまでには帰ってきたし、それほど神経質に閉じ込めようとしたことはなかった。
私は北川さんに曖昧に会釈をすると、急いでいることを強調するために早足で立ち去った。
大家さんである北川のおばあちゃんにはナイトはもういないのだと伝えなくてはいけない。そうわかってはいるのだが、まだ誰にも知られたくなかった。悲しみを共有したいわけではないのだけれど、それでもわかってもらえないのはつらい。御座なりな慰めやお悔やみなど欲しくはなかった。ナイトのことは私だけで悼みたい。

今夜もまた日中の蒸し暑さを残す部屋へと帰ってくる。ナイトが勢いよく外に飛び出さないようにとドアの隙間をバッグでふさぐこともなく、名前を呼びながらその姿を探すこともない。骨壺に向かって小さく「ただいま」と挨拶をする。目を閉じて大きくニャーと返事したナイトはもういない。なのにふくらはぎをやわらかな毛の塊が撫でていったような気がして急いで振り向く。けれども当然そこにナイトの姿などあるはずもない。

ナイト

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