テーマ:お隣さん

ナイト

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読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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ドアを細く開き、その隙間をふさぐようにバッグでガードしながら体を滑り込ませる。鍵を締め、スリッパに履き替えてようやくハッと気づいた。
ああそうだった。もういないんだ……。
部屋の空気が粘っこいあたたかさで頬や腕に絡み付く。先週までは朝出かける前に必ずエアコンのスイッチを入れていた。そして帰宅するとスイッチを切り、自然の風を入れて換気をする。そんな夏を十回も繰り返した。
留守中にエアコンを入れ、在宅中は自然の風で過ごす。これからはそんな不経済な生活をしなくてもいいのだ。それはなんて気楽なのだろう。解放感と喪失感がせめぎ合う。
部屋の奥の掃き出し窓を開けると、少しだけ粘度の低い風が躊躇いながら流れ込んできた。
アパートの一階は防犯上の不安もあって人気がないようだが、私は地面に近いこの部屋が好きだ。奥行き二メートルちょっとのささやかな庭に部屋の明かりが道筋を示すように隣家の壁に向かって伸びている。その白く切り取られた夜には、ところどころにカタバミの小花が黄色く浮かび上がっている。微かな風を鼻腔深くまで誘い込むと、ほんのり草の匂いがした。夜風は苦い緑の味がする。夜が深まる程に植物たちが息づき、青い風を吹かせるのだ。
庭の向こうの低い柵越しに古い平屋が建っている。このアパートの大家さんの家だ。見事なまでに真っ白な髪のおばあちゃんが一人で暮らしている。建て付けが悪いのか雨戸の隙間から細く明かりが漏れている。それをぼんやりと眺めているとふいにその細い線が消えた。室内を振り返り置時計を見るとまだ二十一時前だった。
あ、夜のごはんをあげなくちゃ。そう思って室内に一歩踏み出した瞬間、小さな壺が目に入る。部屋の片隅にトレーに乗せたお水とごはんのお皿と並んでいる小さな壺。白く硬い陶器の壺。先週まであそこにいたのは黒くふわふわの猫だった。今では小さな写真立ての中で澄ましている。
ぶわりと熱い液体が視界を覆う。輪郭を失った部屋の中を手さぐりで進み、ティッシュの箱を抱え込む。ひと箱を空にしたところでようやく涙が小降りになった。
四六時中喪失感に打ちひしがれているというのに、ふとした瞬間に過去と現在が繋がってしまって、別れなどなかったことになっていたりする。ただそれはほんの一瞬のことで、またすぐに現実に引き戻される。ひとたびやわらかな記憶へと遡った心はその落差に耐えられなくなる。こんなことをもう一週間繰り返している。

ナイト

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