テーマ:ご当地物語 / 架空の町

架空の町

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架空の町は僕を歓迎してくれるだろうか。僕は進んだ、進みつづけた。



 剥げかかった緑色よりも、剥げ落ちた赤錆色が弱い光を照り返す――新しいバスがやってくる。雲が潰されてばらまかれたような空気のひと粒ひと粒に太陽があたって、反射する景色が乱れている――新しいバスがやってくる。舗装したてのアスファルトが青く、草が突き破ろうと靴裏を揺らす――新しいバスがやってくる。風が吹いて粒が流れ、また粒がやってくる――新しいバスがやってくる。水色のベンチと同様に、時刻柱にも露がかり、熱に消えるのを待っている――新しいバスがやってくる。タイヤが町を擦りつけてやってくる――新しいバスがやってくる。腕時計を見るとこんな時間で、僕は慌ててバスに乗り込んで、仕事に向かった。
ここは架空の町だ。僕はいま、ここで生活をしている。ここでなら、やっていけるかもしれない。
 
はじめてここにやってきた日、無断欠勤を咎められると思って、先に上司に謝ると、なにをいっているのかと笑われた。
 掃除をするために降りた地下書庫には生ぬるい紙の、幼児のようなにおいがしていた。ほこりが舞って、くしゃみをした。なにかが、くしゃみを塞いだ手についた。ねばねばした、かたまりが。痰ではなかった。黒っぽい色をしていた。なにか悪いもののように思った。地下書庫の端にある防火用を兼ねた洗面台でそれを流してしまうこともできた。きれいに、さっぱりと、なかったことにするように。だが僕は、砂漠で水を飲むように、それを飲みこんだ。僕の名誉のためにいっておくと、それは痰ではない。
手を洗いながら、どこかさっぱりした顔の僕を見た。それまで感じていたはずの閉塞感や逃避願望は、字面としてはあっても、もう、体の奥でおぼろげな、具体性のないものになっていた。思い出して、輪郭だけを懐かしむもののようだった。
 一階に上がると、職員たちが開館の準備をしていた。同僚たちだということはわかるが、みんなの顔が新鮮に思えた。開館のチャイムが鳴って、僕は二階に向かった。もしかしたら彼がいるかもしれないと、奥に向かった。
 彼の席がなかった。彼の席の手前で、二階は途切れて壁になっていた。
 側を通りかかった同僚にどういうことかと聞いた。席があったことを話し、こういう人がずっと座っていただろうと彼の容姿を話すと、「彼に会ったことがあるんですか?」と聞かれて、「彼に会ったことがあるのか」と僕も聞き返した。僕と同僚の会話はぼやけていて、ピントはそこにない彼に合っていたが、僕たちは自分がなにをいいたいのか、なにを聞かれているのか、言葉にしながらもわからなかった。しかし、嫌な感じはしなかった。壁を越えて木が見えるようだった。温かさがさすようだった。記憶をゆっくり、切れかけの歯磨き粉を絞り出すように僕が経験したことの話をすると、同僚が開架を指さした。あの開架はあるようだった。僕は一冊の本を引き抜いた。土のようで、崩れはしなかった。

架空の町

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