テーマ:ご当地物語 / 架空の町

架空の町

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なにかをやめたいという気持ちが、なにかをはじめたいという気持ちと同じくらいあった。いや、まったく同じことだった。やめることははじめることであり、はじめることはやめることだった。うしろでも前でも、どこでもいいから進みたかった。逃げたかった。なにかきっかけがあれば、自分はいつだって逃げることができる、身勝手に、冷淡になることができる。そう思っていた。あとはきっかけだけだった。きっかけを待っていた。きっかけがないのだと、逃げない言い訳を作っていた。
 そして僕はいま、夢のなかで夢だと自覚しているとき、これは夢なのだからどうにでもなれとでもいうように、現実を逃げている。自分自身にしか伝えていない、彼を探すという言い訳を握って。
 彼に会ったことがあるのか、と僕は聞かれて、同じ質問を僕もすることになる。だがそれは少し先の話だ。
 彼をはじめて見たときのことは覚えていない。たとえば木の葉の色が変わったことに気づくときのように、いつの間にか図書館の二階の端に彼がいた。いつの間にか彼がそこにいることは自然なことになっていた。そこにはいつも彼がいた。
 彼は一見すると、僕の父親よりずっと年寄りに見えた。だが、本を棚のあるべきところに戻す拍子に彼のことをじっと見ると、僕は困惑した気分になった。髪の毛は白く、なにかに爪を通されたように規則的に薄くなっていたが、彼の顔には若さが確かにあった。そして、それと同時に、太陽が陰るかすれば、彼はどこかの長老とでもいえるような年寄りだった。まるで、彼の体のなかで絶えず時間が葛藤しているようだった。ときにはさ迷わざるをえない止まった時間と、ときには怒涛の速さで流れる時間と、彼はまるでたたかっているようだった。
 あの日まで、彼はなにをしていたというわけではない。もしかしたら、僕がそこを無断でやめてから、彼は再びそこに戻り、ただ窓の外を見ながらぼーっとしているのかもしれない。
そこの中庭には少ない数の木があった。彼はずっと見ていた。木々は華麗ではなかったが、雨風にそぎ落とされた体躯、骨のような幹にまとった怒りとでもいうような荒々しさを僕も気にいっていた。それに、年寄りでなくても、ただぼーっとしているだけの人はたくさんいた。迷惑ではなかった。客でごった返すことなんて一度もなかった。
 僕はありきたりな逃避願望を抱えながら司書の仕事をつづけていた。何者かになりたかったが、自分たちのようにだれも何者にもなれっこないということを、僕を囲む本たちが告げていた。

架空の町

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