テーマ:ご当地物語 / 架空の町

架空の町

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その席に座って、窓の外を見た。木々はなにも変わらないように見える。業務中だということを自覚しながらも、鍵盤状に顔をさす光にまぶしがった。
二階の端にある席は存在していないように見える。通路からはちょうど死角になっていて、壁の先にまだ道があるかのように奥まで進まないと見えない。あるいは、側の開架にようがない限りは。その開花は他の棚とちがい、ジャンルや版組で本が分類されていない。この図書館ができたとき――つまり、僕が生まれるより前、父親が生まれるより前――、ひとりの人物が寄贈した本で構成されている。触れただけで崩れてしまいそうな、頁が赤くなった土のような本たちがお互いに押しあって、なんとか均衡を保っている。そのなかから、なにかがはみ出している。近づいて、引き出した。原稿用紙だった。
単純に考えて、彼が書いたもののように思える。だが、半分に折られたその原稿用紙は周囲の本に時間を吸い取られるように褪せていた。
家に持ち帰って読んでみると、彼が書いたものにちがいないという確信が生まれた。原稿のなかで、彼が彼であるということが宣言されたわけではない。むしろ、彼自身や彼の投映と思える心情表現はかなり少ない。あの木のように骨ばった筆跡で、淡々と、架空の町につづく風景や道程が描写されている。架空の町の名前は、〈架空の町〉と語られる。語り手はその町を探している(「架空の町は私を歓迎してくれるだろうか」――〈架空の町〉という表現がでてきたのはこれきりだ)。バス停、夏、蝉の鳴き声、子どもが走る――ありきたりな冒頭は、彼の声で再生された。彼の声を聞いたことはないが、彼の声でしかありえなかった。彼の文章は、〈小説〉と呼ばれるべきなのだろう。だが、どのようなレッテルも貼りたくはなかった。語り手が立ち尽くしていたバス停は、僕の家と図書館のあいだにある。僕はいつもそこから出るバスに乗って通勤している。
 僕は原稿を夜通し読み、次の日の仕事を無断で休んだ。そして、それきりあの図書館にいくことはない。

 *

 僕はバス停に立っている。見慣れていたはずなのに、知らないバス停にきてしまったように感じる。通勤や通学していく人たちのなかで、僕の時間だけが、原稿用紙のなかで止まってしまったみたいだ。そして、文字が進み、行が変わるようにして、バスがやってくる。「どこで降りればいいかわからなかった。窓の外を見て、好みの人を五人抜かしたら降りようと思った」語り手はどの駅で降りたのか明かしていないが、僕はひとつ目のバス停で降りた。出発したところが目で確認できる距離だった。「それから、靴千個分、直進した」僕はバスを追いかけることになった。

架空の町

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