ここでいい
満足して外に出ると、春先の変わりやすい気候のせいで通りを風が吹き渡っていた。日中の陽気が嘘のように風が冷たい。ぶるっと身震いして今日はこれくらいにしようと思った矢先に、これまでの江戸の町屋風の建物と異なり、明治の趣を持った建物を発見した。そこもカフェのようだが、改装中の看板が出ている。建物の一部はネットで覆われていた。
数カ月後に、栄吾は久しぶりに柳ケ瀬を訪れた。行き先は例のカレー屋である。最初の頃こそよく来たが、その後はご無沙汰が続いていた。昨日が東海地区の梅雨明けだった。ドアが開け放たれ、心なしか夏の暑気を帯びた風が店内に入ってくる。店の手伝いをしていたアキとしばらく話す内に彼女の雰囲気が変わったのに気づいた。靴やソックスが汚れるのも構わず、トオルの学生証を探していた頃の少女の面影は消えている。
「トオル君はどうしているの?」と栄吾は訊いた。
アキの兄は店をアキに任せて商店街の所用で出かけていた。出がけに例の音楽をかけて行ったので、夏の気配に擬似的なインドの香りも混じる。
「別れたわ・・・」とアキがぼそりと答えた。
「いいやつだったけどな・・・」
「わがままなのよ。暴力二回かな」それ以上は語りたくないようだった。
「今度、他の店で働くことにしたの」しばらくしてから彼女が言った。
「父の知り合いがやってるカフェなんです。誘われてすぐに、潮時みたいで決めちゃったわ」
「潮時って、若い娘が使う言葉だったかな?」
若い頃の自分が店の外から覗いているようで、栄吾は気分が落ち着かなかった。
それからしばらく暑い日々が続いた。栄吾は自分が気象と同調して生きているのを感じた。他の町では感じなかったことである。生涯で初めて季節の様々な色彩に身を任せているように思った。
七月の最終日曜日にあの改装中だった店がオープンした。偶然だが、アキが勤めることになったのもその店である。オープンの日は彼女から知らされた。工事中だった瓦屋根もすっかりきれいになった。建物自体は伝統的な軸組だが、擬洋風の円柱やアーチで飾られている。テーブルの一つに着くと、元気を取り戻した様子のアキがすぐに注文を取りに来た。
「来てくれて有難うございます」とアキが礼を言った。
「昔の彼女がこんな感じの店のファンだったんだよ」と店内を見回してから栄吾は言った。
「だからとても懐かしくてね」
栄吾はカウンターの中にいるマスター夫婦の姿を観察した。女の方に春江の面影はない。栄吾が最初に考えたのはオーナーが春江かもしれないということだった。残念ながらその可能性は消えた。でもここで待っていればいつか春江が訪れるかもしれなかった。その時に一言か二言でも話ができればいい。何故彼女が明治の擬洋風建物にこだわるのか訊いたことはない。でも彼女が一番幸福だった時代がこの建物に凝縮されているのは間違いなかった。だからここでいい。ずっとこの町で待てばいいと栄吾は強く思った。
ここでいい