テーマ:ご当地物語 / 岐阜県岐阜市

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 見知らぬ町に住むことになった時に、澤野栄吾は最初にその町で一番見晴らしのきく場所に上る。町の全体像を自分の中に作るためである。それから休日ごとに道路沿いか川沿いを歩いて、地図を片手に自分の知る領域を広げていく。他人にはおおむね不思議がられる。何しろ部屋の荷物を片付けるよりもその儀式の方が先だからである。部屋をいつまでも荷物だらけにしておくので、いくつかの人間関係が壊れた。最初の恋人とその後結婚した妻もその中に含まれる。五十代になり、孤独であることが当たり前になってから、ようやく彼は誰にも束縛されずに、その習慣に従うことができるようになった。同時に片付けを気にするほどの荷物も持たなくなった。だが転勤の多い会社に勤めていたので、彼の事情に関係なく引っ越しだけは続いた。
 岐阜市に来てからも、最初にしたことはロープウェーで岐阜城のある金華山に上ることだった。岐阜城は言わずと知れた嘗ての織田信長の居城である。一番高い山だと思っていたが、そうではないらしい。標高三百メートルを少し超える金華山に対して、四百メートルを超える百々ヶ峰という山があった。それでもお城を頂きに置いた金華山の山容は立派だった。麓の長良川との対比も良いのだろう。
 休暇をもらった平日の昼下がりの時間帯、ロープウェーの乗客は比較的少なかった。座席がないので皆立っている。前の見晴らし用の窓に白いソックスが泥で汚れた女の子が張り付いていた。十代らしかったが、制服は着ていない。しばらく泥の汚ればかりに目が行った。千切れた草が何本か靴に張り付いている。草叢でも歩いてきたのだろうか。そんなことを考えている時に彼女が急に振り向いたので、視線が合ってしまった。怪訝な眼差に応える術はない。慌てて視線を外して外を見る。ほぼ常緑樹に覆われた山肌が動物めいた輝きで眼下にあった。
 岐阜市には少し因縁がある。最初の恋人だった春江が岐阜にいる。春江の友人だった元妻がそう言った。既に十数年前の話だから曖昧な話ではある。今でもいるとは限らないし、いたとしても結婚している可能性が強い。そのうえで以前に決して良い別れ方をしなかった五十代半ばの男と年の差二つの女が出会うことに、どれほどの意味があるのだろうか。それでもぼんやりした色彩がそこに感じられた。
 山頂駅まで五分とかからなかった。女の子が小さなリュックを背にさっさと降りるのを見送ってから、ゆっくりと降りた。乗客の数から寂しげな景色を想像していたが、十五分毎にロープウェーが行き来するので山頂には思った以上の客がいた。手元の案内図ではここからお城まで一頻り歩く。既に女の子の姿はなかった。道に任せてお城を目指す。すれ違う人影が途切れない。途中、急坂が幾つもあり、すぐに汗を掻き始めた。思いの外、膝の関節も痛んだ。彼にとって高い場所に上ることは、世界を秩序立てるために欠かせない行動だったが、体力面から制約を受ける日がやってくるとは思わなかった。これまではうまくやって来たつもりだが、もういけないらしい。

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