テーマ:ご当地物語 / 岐阜県岐阜市

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天守閣が混み合うほどではなかったので栄吾はほっとした。これくらいの人数だったら、ちゃんと景色が楽しめる。回廊でまずは周囲の景色を一渡り見る。ここまで上ると、岐阜市が長良川を中心に形成された町であることが判然とする。川は小さな蛇行を繰り返しながら目前で大きく湾曲して平野を下っていく。空との境界が曖昧な領域まで延びて、そこで溶け込んで消える。市街図を取り出して、ゆっくりと眼下の景色と比較した。知識が充填されていくこの時間が実に楽しい。主要な通りは湾曲前の川を横断すべく南北に延びていた。橋の配置から逆を辿って通りの名前を確認する。南北の道を横切る二本の通りがあり、ガイドブックによればこちらはお城に向かって延びてくることから、信長時代の主要な通りとされている。眼下の景色は江戸と信長の時代の不思議な混交物だった。
一つの街区を確認しては、ペットボトルの水で喉を潤した。俺はこれで迷わないという確信めいた気持ちが次第に湧き上がる。昔はよく迷ったものだ。小学生の頃に生まれた東京近郊の町で迷いに迷ったことがある。小路の多いその町はまるで迷路のように思われた。どこまで歩いても底なしだった。あの時の絶望感が忘れられない。それが動機であるのを栄吾は十分承知していたが、同時に認めたくない気持ちもあった。未だにトラウマから逃れられない自分のどこに成長の証を求めたらよいのだろう。ましてや定年も近い五十男がと思う。
 残念なことが一つだけあった。山体に隠されて一部見えない地域があった。そこは来週にでも歩いてみることにしようと、天守閣での物見に一区切りつける。最後にもう一度周囲を見渡してから城を出た。外に先刻の女の子が同じ年頃の少年と一緒に佇んでいた。
「城は見なかったの?」気になっていたので通りすがりに声をかけた。
「あー、先刻のおじさん。何度も来てるから景色は別に見なくてもいいの」意外に落ち着いた声が返った。
 返事からは地元の子と考えてよさそうだ。それに自分のことを覚えていてくれたのも嬉しい。一方で少年の挙動はどこかおかしい。浮かない顔でズボンやシャツのポケットを何度も探っている。栄吾に負けないくらい汗を掻いており、湿ったシャツが肌に張り付いていた。飼い主から理不尽な仕打ちを受けた犬のようだと栄吾は思った。
「何か失くしたのかい?」察してそう訊いた。
「学生証です。今年こちらの大学に入ったばかりなんで。財布をこっちのポケットに入れて、反対側に学生証を入れたつもりだったんですけど、ここまで来て財布はあるのに学生証がないのに気づいたんです。彼女に見せるために下で一度出したので、探す範囲は限られてるんですけどね」

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