テーマ:ご当地物語 / 兵庫県市と甲子園球場

甲子園とチョコレート、そして四月

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 右腕をグルグル回しながらホームに向き直ると、バックネット越し、盆地の町の全景が見える。片手の掌で隠れるほどの小さな町だ。
 山から颪してくる風が、早くも白く乾き始めたグラウンド表面の細かい土をさらって舞い上げ、町の景色に紗をかけた。降りしきる蜩の声と、時折、山が風にゴウッと鳴る以外、なんの音もない。鉄道も高速道路も通らぬ小さな田舎町は、ヒロユキの眼下に、ひっそりと死んだように蹲っている。

 コンバースを履いた右足で足場を均し、キャップを押さえて深く被り直すと、ホーム方向をぐいと睨んだ。
 右足をプレートにかける。
 ゆったりとしたモーションで、大きく振りかぶる。
 左足を高く上げてから、軸足で一旦踊るように反動をつけると、胸を真っ向正面に、グンッ、と反らして、右足がプレートを蹴ると同時に、肩に掲げた右腕をしならせ、ぶん、と思い切り振り抜いた。

 見えないボールが空気を切り裂いて行った音が、確かな残響として耳に残る。
 ベンチに繋がれたまま、おとなしくヒロユキを見ていた犬が、一声、「オン!」と鳴いた。
 空手で激しく振り抜いた右手が、ジン、と痺れる。
 フォロースルーの中腰から、大きく足を開いたまま起き上がると、NIKEの黒いキャップを取った右手の甲で、額の汗をぐりんと拭う。
 それから、たった今渾身のストレートを叩き込んでやったちっぽけな町を、ヒロユキはマウンドに仁王立ちのまま、さらに挑発するように見下ろして、やがて、「へへん」と笑ったその頬を、夕暮れ前の風がなぶった。

 「やっぱり、ここに居った」
 ふいの声に、頬に笑いを張り付けたままの顔で振り向いた。いつの間に来たのか、桜の樹の下には、コータの手を引いた美佐子が立っている。
 手にしていたアンダーアーマーのキャップで、同じ「UA」マークの付いたスェット上下の膝の辺りをはたきながらマウンドを降り、二人のもとにゆっくりと歩いて行く。
 「ここに居るて、ようわかったな」
 美佐子とコータの上にちらほらと薄いピンクの花びらを散らしている桜の樹は、ヒロユキたちがこのグラウンドを駆け回っていたころには、まだ細い幹に艶々とした樹皮を巻いた若木だったのが、二十と数年の歳月を経て、今やごつごつと岩の様な幹を持つ巨木に成長し、四方に広げた枝に重そうな花房を過剰なまでに盛り上げ、たふたふと風に揺られている。
 「うん。田村さんが教えてくれはった。多分、ここやって」

甲子園とチョコレート、そして四月

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