テーマ:ご当地物語 / 兵庫県市と甲子園球場

甲子園とチョコレート、そして四月

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

 それなのに、県内あちこちに立派な球場が増えたのが理由か、年号が平成に変わったあたり……つまりヒロユキたちが高校生になる直前から、開会式の会場が明石球場に変更されたばかりか、予選の試合もまた、甲子園球場で行われるのは2試合からせいぜい4試合と激減しており、それもたいていが二回戦以上で、決勝……はまあ、ヒロユキたちには無縁だが、その決勝戦ですら、甲子園ではなく明石球場が使用されるのが通例となり、ますますその土を踏む機会が遠ざかってしまった今、くじ運に一回戦不戦勝が重なって転がり込んできた「甲子園」は、まさしく僥倖以外の何物でもなかった。

 岡山、鳥取両県境に近い北播磨の町を、朝一番のバスで出発し、更にローカル線の気動車から電車へと、三度の乗り換えを経て、勇躍乗り込んだ甲子園だった。が……
 その日、阪神甲子園球場で行われた兵庫県予選大会二回戦、選抜準優勝の経験もあるシード校相手に、エース・ヒロユキは、カーブのコントロールが定まらず、頼みのストレートは狙い打たれて、一本塁打、二塁打四、三塁打一を含む長短十五安打を浴び、さらに与四球五。守りにもエラーが続出、打っては二塁をも踏めぬ体たらくで、五回コールド、18対0で最後の夏を終えた。
 試合開始前には、予選にもかかわらず、ブラスバンドにチアリーダーまで引き連れた相手校の応援席を見上げ、せっかくの甲子園に、なぜ俺たちには応援がないのだ、と不満を漏らしたヒロユキたちナインも、終わってみれば、誰にも見られなくて良かったと、一様に皆、胸を撫で下ろしたのだった。
 まァ、あんなもんやて…。相手が悪いわ。けど、甲子園の、あのスコアボードにやぞ、自分の名前があって、『五番、ピッチャー、高橋くーんんん…』て、うぐいす嬢の声が銀傘に響くんや。あれは、気持ちよかったわァ。

 一方的な試合の終了後、チームの何人かがベンチ前に屈み込み、「土」をスパイクケースに詰め込み始めた。引き上げて行く相手校の選手たちが指差し笑うのを見て、さすがに押し止まったヒロユキだったが、家に帰ってから、スパイクに付いた土を丁寧に掻き落とすと、それを小さな瓶に詰めた。そしてそれは、今も机の中に大切にしまってあるのだった。就職先にも持って行くつもりだ。
 ヒロユキは来春の卒業後、父親の経営する寿司屋を継ぐ修行として、京都の老舗寿司店に住み込みで入る。
 父には、せめて高校の後、調理師学校に行ってから……、と一応言ってはみた。言ってはみたが、胸の内を見透かされたような、「無駄や」の一言で一蹴された。

甲子園とチョコレート、そして四月

ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

この作品を
みんなにシェア

4月期作品のトップへ