テーマ:一人暮らし

「電話」他五篇

この作品を
みんなにシェア

読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

閉じる

Uターンをし、駅に戻るふりをして歩く。同じ道に、彼女はもういなかった。

夜九時の同じ道にあの人はいる、可愛い犬を連れて。初めてその道を右折した。あくまで
もこっちが通り道です的な平静さを装って。彼女と彼女の愛犬の横2mを歩く。想像以上
に彼女は美しかった。今まで離れた距離でしか見ていなかったので、初めて近くで見る彼
女の肌や耳の形、口元に予想外の大人ぽい色気を感じた。もしかしたら年上なのかもしれ
ない。

夜九時の同じ道にあの人はいる、可愛い犬を連れて。右折して、彼女の横を通る。「こんば
んは」と彼女が言った。いかにも、犬の散歩中に近所の人に挨拶する感じだ。「こんばんは」
と素直に答えた。ただの、近所の人になった。





3「テレビ」

「面白いなぁ」
今日子はテレビを見ながら思った。無意識に口から出たその言葉で、今の自分の虚ろな精
神状態を知った。乾いて、空っぽになっていた。

本当に面白いのは、今日子の見た目かもしれない。家の中に一人でいるとはいえ、かなり
トンチンカンな格好。誰にも見られてない女子の、恐るべきだらしなさ。だら~と伸び切
ったTシャツは大昔に出た市民マラソンの記念品で、悲しくなるデザインだ。色が落ち切
って、むごい紫色をしている。おへそのすぐ下には肌色のデカパンが見えている。超ロー
ライズの白の霜降りスウェットパンツは、醤油やケチャップの滲みや汚れで雑巾のように
見える。何故かきちんと履いている靴下は、厚手で下品な縞模様。爪は悪趣味な緑色に塗
られている。髪の毛は酷く粗末に放っておかれたらしく、今すぐシャワーを浴びてきたら
と言いたくなる。

かれこれ二時間くらい、テレビの前にいる。テレビを眺め、ケータイを見る、テレビを眺
め、ケータイを見る。番組は株式市場を伝えるニュースに変わっている。今日子はたぶん気づいていない。きっと、何も考えていない。

お風呂に体を沈めて温まるうちに、眠りそうになる。

ポットからお湯を出し、カップ焼きそばに蓋をする。何もせず、ただ突っ立って三分を待った。お湯を切る。
「あち」
何時間ぶりに声を発したので、かすれて上手く言えなかった。
「熱い」
今日子はもう一度言い直す。誰も聞いてないのに。

カーテンを引き、窓を開けた。空が真っ赤に夕焼けしている。今日子は驚いた様子で、
「あ、赤い」
とはっきり口にする。





4「猫」

猫が木に留まっていた。歩いている時にふと、上で物音がした気がして見上げると、白、黄、黒の斑の猫が木の枝と枝の間に留まり、こっちを見ている。猫は自分を警戒していた。それにしても、上手いこと立っている猫だった。家の脇に植えられて葉が上の方にしか付いてない木で、幹は15~20㎝の太さしかなく、心細く頼りない、野性味ゼロの白木だった。高さ3mくらいの、幹がちょうど複数に枝分かれする地点に猫はいた。登ったのか、それとも屋根から飛び移ってきたのか。何だか不思議に思い、僕は立ち止まり、猫を見た。猫は僕から視線を外さなかった。普通見られたり近寄ったら逃げそうなものだが、その猫は僕との距離がおよそ2mを切っていたにもかかわらず、じっとしていた。決して慌てないぞ・・という決意みたいなものが伝わってきた。でも、実際は少し動揺していたように思う。まさか上を向くとは思わなかった・・という焦りが見えたのだ。一瞬、体が2㎝くらいピクついた猫は、多分反射的に逃げようとしたが、木の上だし人間の手は届かないだろう、わざわざ降りて逃げなくてもここにいても危険はないと思ったに違いなかった。もちろん自分だって、木に登った猫とにらめっこする、この瞬間を予想すらしてなかったので、動かずに、ただじっと見るしかなかった。猫は辛抱強く、視線を逸らさない。駅に向かう途中だった僕は、振り向いてその場を歩き去る。いやに日本的な猫だった。その家の外壁の色や質感の影響もあったかもしれない。現代的な木造和風の家の、枝がにょきと曲がって伸びる白木に留った、和風な斑の白い猫。きっと雄だ。勇ましい感じがした。目の印象が未だ強い。歩きながらその後、猫に上から睨まれたことについて考えた。でも、それはそこから100mほど歩いたらもう忘れていた。次に何を考えて歩いたかは、もはや思い出されないが、きっと仕事のことだろう。そして今なぜか、昼間出会った猫のことを思い出した。何でもないことにも緊張があり、不思議がある。

「電話」他五篇

ページ: 1 2 3 4 5 6

この作品を
みんなにシェア

7月期作品のトップへ