テーマ:お隣さん

耳毛の顛末

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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 あ、忘れ物がないか念のためご確認くださいね、こないだも女性のお客様がピアスを落していってしまって。あら、女のお客さんって結構いるの? 多いっていうことはないですけど、ときどきカップルでいらっしゃる方もいるみたいですよ。ふうん、そうなんだ。
 何かが引っかかる気がする。この違和感は何だろう。
 店を出たら夫と喫茶店で合流するはずだったが、私は夫を置いて一人で家に帰った。確信も何もないけど、どうにか確かめなければいけないことがある。いや、いくらなんでも浮気相手と行った場所に妻を連れていくなんてありえない。でも、やはり引っかかるのだ。
 向かいの道路からマンションを見上げると、桂子さんの部屋に灯りがともっている。私はその呑気な光を眺めながら、どうやって切り出したものかと頭を働かせる。そういえば、彼女の勤務先は有楽町だった。夫の職場が浜松町だから、新橋はちょうどその中間ということになる。歩いて行ける距離だ。
 間の悪いことに、ぽつぽつと雨が降ってきた。街灯に照らされたアスファルトが黒くにじんでいく。地面から埃のにおいが立ち上る。洗濯物を干しっぱなしだったことに気づいて、私は慌ててマンションのエレベーターに飛び乗る。
 額がじっとりと湿って、前髪が貼り付いている。雨のせいなのか、汗のせいなのか分からない。5階でエレベーターを降りて、桂子さんの部屋の前を素通りして自分の部屋へ向かう。カレーの匂いが漂ってくる。そういえば今日、夫がカレーを食べたいと言っていたっけ。いったい何の偶然なんだろう。
 そうこうしているうちにも雨脚は強くなっていき、洗濯物はぐっしょり濡れていた。情けなくて涙が出そうになる。横殴りの雨に打たれながら、私はベランダに座り込んだ。
 夫は今頃どうしているだろう。先に帰るとだけメールで伝えてあって、その後何度か着信があったけど無視したままだ。夫はこの雨のなかで、何を思って帰ってくるのだろう。そもそも夫はこの部屋に帰ってくるのだろうか。
 雨のせいで体がすっかり冷えきっていた。部屋に戻らないといけない。それなのに私は未練がましく、ベランダに据え付けられた非常用のパーテーションの隙間から桂子さんの部屋を覗き見ようとしていた。カーテンに閉ざされて、中の様子はうかがえない。少なくとも私の今のみじめな姿は見られていないのだと、変なところで安堵してしまう。
 こんなところで途方に暮れていたって何にもならない。気持を切り替えて洗濯物を取り込もうとしたとき、目の端になにかきらっと光るものが飛び込んできた。足もとに転がっていたのは、オレンジ色の石が鈴なりに3つ連なった、変わった形のピアスだった。

耳毛の顛末

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