In My Life
山の昼は短い。日が沈むのが平地よりもずっと早いのだ。由利子は、週末にはいつも早起きをして洗濯をした。タオルや服と別にシーツを洗い、その間にベランダに出て手すりや物干し竿を丁寧に拭いて埃を落とした。洗いあがったシーツを皺が寄らないように干していると、隣の窓が開き、男性が遠慮がちに腕を伸ばして、ハンガーに通したTシャツを洗濯用のロープにかけた。
「あの」
すぐ引っ込んでしまいそうな腕を追いかけるように、由利子は声をかけた。しばらく誰とも話していなかったから変に高い声が出てしまったし、咄嗟のこととは言え、人見知りの自分が誰かに声をかけるという行動に、自分でも驚いた。隣の男性は一瞬の間を置いてからベランダに顔をのぞかせ、「自分に何か用か?」というような表情をした。アパートの敷地で何度か挨拶を交わしたことはあったが、ちゃんと顔を見るのは初めてのことだ。
「すみません。この前のギター、すごく良かったので」
急に声をかけて驚かせてしまったことと、特別用事があるわけでもないことへの謝罪を口にしてから、由利子は心にあったことを正直に言葉にした。男性は「あぁ」という顔をしてから、控えめな微笑みを由利子に向けた。髪には寝癖がついていたし、髭もまだ整えられていなかったが、彼は人の良さそうな顔をしていた。
「ビートルズの『In My Life』」
彼はぽつっと一言だけ喋ると、視線を由利子から外した。少し遅れて、由利子はそれがこの前聴いた曲のタイトルだと理解した。頭には、あの素朴なギターの音が流れている。
「また聴かせてください」
由利子はできるだけ自然な微笑みを作ってそう言うと、軽く会釈をした。彼も先ほどより心なしか親しみのこもった微笑みでそれに応え、部屋の中に戻っていった。シーツをきっちり干して部屋に入ると、由利子は緊張の糸を切るように鋭くため息をついた。なぜ隣人に声をかけたのか自分でもわからない。ただ、あのギターの音は、由利子自身が思っているよりもずっと、由利子の気持ちに影響を与えたようだった。誰もが称賛するような演奏だったわけではない。特別な技巧が使われていたわけでも、ドラマチックな抑揚がつけられていたわけでもない。原曲よりもずっと静かに、そしてゆっくりとしたテンポで演奏されたあのときのギターの音は、川のせせらぎのように、心地良く由利子の心に浸み渡った。心を覆っていた氷の蓋を、あのギターの音がそっと溶かしたようだった。
In My Life