スクランブルス
【夜、渋谷行きたいんだけどつきあってくれない?】
「いいよー。あ、にんじんしりしり食べる? 雪絵ちゃんが作ってくれたやつ」
私はタッパーを指し示した。ヒナは無言で着席すると、フォークで小さな口にニンジンと卵を運ぶ。普段固く閉じられている唇は桜貝のようで、私はそれが開く貴重な瞬間をつい凝視してしまうのだ。
【おいしい】
ヒナのタブレットに四文字が浮かび上がった。雪絵ちゃんの手料理はいつも優しい味がする。
ヒナが行きたいところというのは、なんと渋谷のクラブだった。彼女が差し出したイベントのチラシには、キメ顔の雪絵ちゃんが写っている。雪絵ちゃんが自分のステージに誘ってくれたことはここ半年で一度もないのだが、どういう風の吹き回しだろうか。
「クラブ」といえば高校時代の部活動ぐらいしか知らない。しかし初めて足を踏み入れたクラブは、私の所属していた手芸クラブとは大きく異なるところだった。
人ひとり分ぐらいの狭い階段を降りて地下の防音ドアをあけると、甘ったるい演出用スモークの匂いが鼻をくすぐった。薄暗い室内を駆け巡る緑のレーザービームに、ロボットみたいな巨大スピーカー。華やかな男女の人いきれにおでこが汗ばむ。うーんなんだか大人の女って感じ。私はわくわくして前方のステージに近寄っていった。室内の音量に負けないよう、ヒナの耳元に口を近づけて話す。
「クラブってすごいんだねえ」
【大したことないよ。ここはまだ全然小さいハコ】
「へーえ」
私はすべてが物珍しく辺りを見渡してしまうが、ヒナは冷静にタブレットでSNSをチェックしている。ひょっとしてこういう場に慣れているのだろうか。半年ほど一緒に過ごしていても知らないこともあるものだなあ、と私は妙に感心していた。あと、自動販売機の中身がレッドブルだらけなのはどうしてだろう、とか。
「あ、雪絵ちゃんだ」
私は呟いた。狭いステージに雪絵ちゃんがのぼって、ひとり卓上の機械をいじっている。ケーブルをつないだりボタンを押したりと何かの準備をしているようだが、肝心の「お皿」は一枚も見当たらなかった。
【「皿」っていうのはレコードのこと。DJっていうのはレコードとかCDを次々かけていく人のことよ】
きょろきょろしている私の心を読んだかのようにヒナが教えてくれた。周りを見渡してみれば、みんな音楽にノリながらスマホやタブレットをいじっている。常にタブレットをいじっているヒナもここでは全然自然で、というよりむしろしっくり溶け込んでいるように見えた。
スクランブルス