テーマ:一人暮らし

私とタツヤとノムラ君

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「あ、こんにちは」
「こんにちは」
「すいません、突然。でもこの前、買い物袋から昆虫ゼリーが見えたので、もしかしたらって思ったんです」
「ありがとうございます。それで、あの・・・ウチのカブトムシは」
「元気ですよ。連れて来ようと思ったんですが、ちょっとですね」
 ノムラ君は妙に口ごもった。
「ちょっと事情がありまして・・・。すぐには彼を動かせそうに無いんです」
「どういう事でしょう?」
 見て貰えれば分かります、と彼はその場から離れ、すぐ隣にある自分の部屋の扉を開けた。どうぞ、と待ち受けている。常識的に考えて、彼氏や家族でも無い男性の部屋に上がり込むのは余りに無防備だろう。だが、まるで修道士の様に誠実そうなノムラ君の雰囲気に警戒心が薄れたのと、一刻も早くタツヤの姿を見たいという一心で、私は特にためらう事無く、彼の部屋に足を踏み入れてしまった。
 ノムラ君の部屋に、家具らしい家具はほとんど無かった。流しや床は掃除が行きわたっており、カーテンレールに掛けられたワイシャツがほんのり柔軟剤の匂いを放っている。
「ここです」
 前を行くノムラ君は平面テレビを載せたローボードの端に、ちょこんと置いてある虫かごを示した。私は、思わずそこに駆け寄り、覗き込む様にして中を確認した。
 なる程。私は一目でノムラ君の言葉の意味を理解した。タツヤは確かにそこにいる。だが彼だけでは無い。虫かごの中には、タツヤよりも一回り小さくて角のない、メスのカブトムシがいたのだ。
 タツヤは、六本の脚で、背後からがっちりとメスを抱え込み、ぎー、ぎーというボートを漕ぐような鳴き声を出しながら、メスのお尻に自分のお尻を合わせている。タツヤの興奮ぶりとは対照的に、メスはまるで何も起きていないかの様に、淡々とゼリーを食していた。
「ちょっと、この状況で引き離すのは酷かと思いまして」
 と、ノムラ君は困ったような笑顔を浮かべて言った。
「午前中に洗濯物を取り込んでいたら、バスタオルにくっついていたんですよ。すぐに思い当たりました。サトウさんのカブトムシじゃないかって。取りあえずコトミの部屋で保護して、何度かそちらに伺ったんですが、ずっとお留守で」
 コトミ。私は聞き逃さなかった。どうやら、彼は口走ってしまった事に気づいていない。スルーしてあげるべきだったのかもしれないが、私はそれに触れずにはいられなかった。
「本当にありがとうございました。でも、こんな近くに、他にもカブトムシを飼育している人がいたなんて、驚きです。コトミちゃんの事は、どういうきっかけで飼い始めたんですか?」

私とタツヤとノムラ君

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