テーマ:一人暮らし

私とタツヤとノムラ君

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「聞いてよ、タツヤ」
 私はカブトムシをタツヤと名付けていた。好きな漫画のキャラクターの名前だ。風呂上りにチューハイを飲みながら彼に話しかけるのが、いつしか私の日課となっていた。
「最近君が気になって、早く帰るでしょ?この前の飲み会も断っちゃったし。そしたら、みんなの間で噂になってるんだって。サトウさん彼氏できたんじゃないかって。ヒロミちゃんなんか、そういえば最近綺麗になったよね?とか言っちゃって。いやいや、有り得ないから」
 おかしいね、と言葉が返ってくる訳もなく、彼は黙々と食事を続ける。それでいい。聞いてくれさえすれば、私はそれで十分なのだ。

 とある土曜の午前中。いつもの様に新しい昆虫ゼリーを補充しようとした私は、蓋とケースの間に挟んだ保湿用の新聞紙が海苔の様にパリパリになっている事に気づいた。
 蓋を開け、乾燥した新聞紙を取り出して、再び蓋を閉める。玄関へ行き、下駄箱の上に積まれた古新聞を適量抜き出して水に濡らす。水滴が垂れぬよう、流しから小走りでケースの元に戻り・・・。私は唖然とした。
 蓋が少しだけ開いている。そして、つい先ほどまでゼリーを食べていたタツヤの姿が無い。私は濡れた新聞紙を放り出し、ケースの中の腐葉土をかき回した。いない。
 少しの間だから大丈夫だろう。そう思い、ケースの蓋をきちんと閉めなかった事を私は後悔した。カブトムシは己の体重の20倍の重さのものを動かす事パワーがある。その予備知識があったにも関わらず、油断してしまった。
 ベッドの下や冷蔵庫の裏、浴室やトイレを隈なく捜索しても、彼の姿は無い。居間に戻りレースのカーテンが揺れているのを見て、私は思わず天を仰いだ。ベランダの窓が開いている。朝起きた時に、空気を入れ替えようとして、開けたままだったのだ。
 祈るような気持ちでベランダに出たものの、やはりそこにもタツヤの姿は無かった。
 まだそんなに遠くへは行っていないはず。私はサンダルに足を突っ込むと、部屋着のまま玄関から飛び出した。
 バルコニーの目の前は駐車場だ。休日という事もあり、車の数は少ない。真夏の太陽に容赦なく照らされ、アスファルトからは息が詰まるような熱気が立ち上っている。もし、こんなところを這い回ったりしたら、昆虫など立ちどころに熱死してしまうだろう。私は、停まっている車の下を含め、隅々まで駐車場内を調べたが、ここにも彼の姿は無かった。
「どこに行っちゃったのよ・・・」

私とタツヤとノムラ君

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