テーマ:一人暮らし

私とタツヤとノムラ君

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読者賞について

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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近づくと徐々に物体の色や形が明確になってきた。光沢のある小豆色の体。反り返って伸びる刺又の様な角。「嘘」と私は思わず目を丸くした。まさか東京で、こんな住宅街で遭遇するとは。
物体は、カブトムシだった。
田舎育ちの私に、虫に対する抵抗感は少ない。正体を掴むと、途端に私の警戒心は薄れ、いつの間にか足元にそれを見下ろしていた。大きい。久しぶりに見てそう感じたのではなく、私の人生を通り過ぎていった彼等と比べてそう感じたのである。立派な個体だ。こんな巨大な生物を目の当たりにしても、微動だにせずに悠然と構えるその姿は、鎧武者を彷彿とさせた。
私は、カバンからスマホを取り出し、その凛々しい姿をカメラに収めた。SNSに載せるためでもなく、飲み会の話のタネの為でもない。純粋に、この貴重な遭遇を記録しておきたかったのだ。
パッとたかれたフラッシュに、彼は半身を起こし、「無礼者!」と言わんばかりに角を振り上げた。
「ごめんなさいね」
  画像がきちんと撮れている事を確認すると、満足した私はその場を離れ、再び歩き始めた。
彼はどうしてここへ来たのだろう。この辺に彼等の餌場となりそうな雑木林など存在しないのに。何となく振り返ると、彼はまだ道の真ん中に居座っていた。この住宅街は、大きな通りへの抜け道として使われており、朝になると、それなりに車の往来がある。
少し考え、私は彼の元へ引き返した。もし後日、あそこでプレスされた彼の亡骸を見てしまったら、やり切れない気持ちになるだろう。先ほどの画像が彼の遺影になるのはごめんだ。
 再び彼を足元に見下ろし、私は勇気を出して、その背中(厳密な昆虫の体節の区分けでは胸部分になるのだけど)にあるフック状の突起をつまんで持ち上げた。驚いたのか、彼は六本の脚をジタバタと激しく動かす。中々の手ごたえだ。
 ざっと見回したところ、このあたりの路上に彼が身を隠せる様な街路樹や草むらは見当たらない。
  どうしよう。大暴れのカブトムシを親指と人差し指で摘まんだまま立ち往生していると、すぐ目の前にある一軒家の塀の内側から、金木犀の枝が飛び出している事に気づいた。仕方が無い。家の方には申し訳ないが、あそこに彼を避難させて貰おう。
 抜き足差し足で、一軒家に近づき、枝に彼を掴まらせようとしたその時、ジャラリと鎖がずれる音がして、雷鳴の様な犬の鳴き声が響き渡った。私は思わずその場から飛びのくと、カブトムシを手にしたまま、一目散に駆けだしてしまった。

私とタツヤとノムラ君

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