テーマ:一人暮らし

住む記憶

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読者賞について

あなたが選ぶ「読者賞」

読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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キーボードを叩く手を止め、コーヒーを淹れる為に立ち上がった。そのとき、なんとなくおかしな感じがして左を振り向くと、同時に、息を飲み、フリーズ。幻覚?と思い瞬き、また瞬き、また繰り返す。それでも目の前にあるものは消えない。目を擦る。まだ消えない。そろそろ諦めて、僕は自分がそれを認識していることを認めた。ただ、少しぼやけて透け感がある。そういう類のものが見えた経験はない筈だけれど、今目線の先では確かに、そこにいない筈の人物が、そこにない筈の机で、そこにない筈のパソコンを開いて、作業をしている。男だ。男は作業をしながら、指先で机をとんとん叩いたり、首を左右にひねったりする。どうやら相手の方は、こちらの存在など気にも留めていない様子だ。変な話だけれど、向こうの方が、こちらに気づいていない、という状況のように感じた。突然勝手に人の部屋に現れておいて、失礼な話だと思う。
「あのぉ・・・誰ですか・・・?」
 思い切って言ってみたものの、それは今まで自分が耳にした中で、一番情けない声だった。予想以上に緊張してしまって、掠れて裏返った声は、口元で煙みたいに消えた。静まり返った部屋で、男はキーボードを叩き続けている。静まり返った部屋で・・・・・。まるで無声映画だ。どうやら彼は、とても控え目な人物らしい。それにしても、この状況を一体どうしたらいいのだろう?意味もなく部屋を見回してしまう。と、すぐにそれを後悔した。部屋の中が、めちゃくちゃだった。散らかっているとか、物が倒れているということではなくて、そこに僕の知らない物がいくつも在った。僕の物に重なって、それらがうっすらと、存在している。ベッド、テレビ、テーブル。
「何これ・・・・・」
 僕はしばらくの間、ただただ茫然とすることしかできなかった。そうしているうちに、いつしか全てが消えていき、部屋は元に戻った。それでものすごくホッとはしたけれど、僕の頭の中からは、今目にしたものが消えてくれることはなかった。

「事故物件じゃないの?」
 座りながら直人がそう言って、サンドウィッチを取り出した。歩きながら彼に昨日の出来事を話すと、予想した通りの反応が返ってきた。晴れていて気持ちいいので、大学のキャンパス内のベンチでランチをすることにしたが、僕自身はだいぶ雲行きが怪しい。昨日一睡もできなかったせいで、今日は進められる授業を微かなBGM程度にしか感知できず。目が映写機にでもなった様に、昨日のあの光景が、現実に投影されてしまうのだ。

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