テーマ:ご当地物語 / 草加

おせんべいの由来

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「向う横丁のお稲荷さんへ 一銭上げて ざっと拝(おが)んで
お仙の茶屋へ 腰をかけたら渋茶を出して 渋茶よこよこ
横目で睨んで 米の団子(だんご)か土の団子か お団子団子……」 
 江戸時代にはやった手まり唄で、埼玉県では今に歌いつがれている、息の長いヒットソングであります。お仙の茶屋とは、江戸時代初期、今の草加市かいわいの男たちの目をひきつけた評判の美人、お仙さんがサービスに精を出していた、街道ぞいにあった休み茶屋のことです。
 お仙は、髪をひっつめに結い、伊勢崎(いせざき)銘仙(めいせん)の着物に、メリンスの帯をおたいこに締めて、毎日店に出ていました。草加の先の街道ぞいの伊勢崎は、「桑都」の名のあるほどの織物の地で、江戸時代から生糸集散地として賑わっていたのです。
 お仙のいた茶屋については、河竹黙阿(かわたけもくあ)弥(み)という有名な劇作家が『怪談月(つきの)笠森(かさもり)』という芝居にしくんで、慶応元年(一八六五)に浅草の守田座(もりたざ)で上演され評判をよびましたので、江戸の笠森稲荷(谷中)の境内にあったと思われているふしがあります。しかし、それは間違いでありまして、お仙のいたのは、千住に隣接し、日光街道の宿場町として栄えていた草加宿に立ちならぶ掛け茶屋のひとつだったのです。
 お仙は美人であったばかりではなく、お茶菓子などにも工夫をこらしていましたが、ある日、団子が売れ残ってしまいました。始末に困ったお仙がふと思いついたのは、団子を平べったくのばして、天日(てんぴ)に干し、炭火で焼いたら、保存食になるのではないかということです。さっそく試してみると、長持ちのする、おいしい焼き餅ができました。
 これをお茶菓子に出し、また旅人に売ったところ、大好評で、お仙の名をとって「おせん餅(べい)」と呼ばれ、草加宿の名物となったのです。
 ある日のこと、二代将軍の徳川秀(ひで)忠(ただ)が、草加在(ざい)の大原村で鷹狩りを楽しみ、その晩は舎人(とねり)というところに泊(と)まる予定で日光街道を通りかかりました。途中たまたまお仙の茶屋に腰を下ろした秀忠は、焼き餅のおいしさと、携帯するのに便利なことにすっかり感心し、戦場の携行食に用いることにするとの御意(ぎょい)で、宿場役人に江戸城に持参するよう命じました。なんと、おせん餅は将軍家御用達となったのでした。
 わたくしは、子供のときから塩せんべいをボリボリかじって育ちましたが、しょうゆを塗ってあるのに、どうして塩せんべいって言うのかなと思っていました。そのわけは、作り出した当初は米に塩をまぜて伸(の)した、つまり塩味だったからなのです。その後、下総(しもうさ)国(のくに)の野田・流山・銚子かいわいで、しょうゆの製造が盛んになり、しょうゆ味のおせん餅が誕生し、江戸の御城下にもひろがりました。また鈴木春(はる)信(のぶ)という有名な美人画家が、お仙の評判を聞きつけて、江戸からやって来たりしました。お仙の姿を錦絵版画にして売り出したのです。

おせんべいの由来

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