テーマ:ご当地物語 / 兵庫県市と甲子園球場

甲子園とチョコレート、そして四月

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 「ああ、タムシが……」
 とたんに美佐子の顔が、クシャッと崩れる。
 「あははは! なに、それ? タムシて……あんまりな……」
 なあ、と手を繋いだコータに同意を求めながら、腹をよじって笑っている。まだ四歳のコータは、わけもわからず、そんな母親をきょとんと見上げていた。
 相変わらずよく笑う女だ。普段からさして面白くもない冗談をひどくおかしがり、さらに笑い上戸なこの女が涙を浮かべて笑うさまを見ていると、ヒロユキの口元にもまた、知らず微苦笑が湧いてくる。
 「けど、ええ人やね、タム……あ、田村さん。今日かって、ずっと朝から手伝うてくれたし。あ、そない言うたら、田村さんの顔、なんか足の裏に……」
 皆まで言い終わらずに、またもや「ひ~っひひ……」と腹をよじりだす。
 「お前の方が、よっぽどひどい事言うとるわ」

 タムシこと田村史郎は、中学高校通じて、ずっとヒロユキとバッテリーを組んできた古馴染みだ。上に兄一人と姉二人の末っ子なのだが、長兄が理系の大学を出て名古屋のメーカーに勤めていたので、当時すでに結構な齢だった父親に代わって、高校卒業後すぐに実家の酒屋を継いだ。
 田村は、かつての「女房役」よろしく、今も何くれと面倒見がよく、今日も引っ越しのトラックが到着する前から待ち構えていて、連れてきた野球部の後輩二人を差配しながら、あっという間に荷物を運びこんでくれた。
 「田村さんな、あんたが帰ってきてくれて、ほんまに嬉しいみたいよ。もうわたしにまで、ヒロは、ヒロはね、て、そらもう嬉しそうに、昔話さんざん聞かされたもん」
 「甲子園とか?」
 「うん! 言うてやった! ヒロと甲子園に出た、て。びっくりしたよォ、あんた、そんなことひと言も言うてやなかったし。なあ、コーちゃん、お父ちゃん、甲子園球児やったんで」
 「あほ。甲子園ちゅーても、県予選で、しかも5回コールド負けや」
 ヒロユキも含めて、高校卒業と同時に同級生たちの多くが進学や就職で町を出て行くのに、「俺は、ここが気楽でええんや」と嘯いていたタムシだったが、内心、寂しさを抱えていたのだろう。ヒロユキが、大阪を引き上げて帰ることに決めたと電話した時にも、「そうか、ようやっと決めたか。それがええ、それがええてよ」と声を弾ませた。

 ヒロユキが、故郷に帰ろうかと考え始めるきっかけもまたタムシだった。「ついでがあったから」というのは方便に違いなく、ヒロユキの勤めていた天王寺のホテルまで、わざわざ訪ねてきたのは、この正月の松が明けたころだった。

甲子園とチョコレート、そして四月

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