甲子園とチョコレート、そして四月
確かに、中学の頃から、父を手伝って板場に入っていたヒロユキは、すでに一通りの事は身につけていた。去年の夏の合宿の時にも、キャベツを千切りに刻む美香の手つきがあまりに危なっかしく、「貸してみィ」と包丁を奪い取って、鮮やかな手つきを披露した。米を研いでいたもう一人のマネージャー坂口佳織が、「へー……」と手を止めて感心し、美香など、口を半開きにし、目を潤ませてヒロユキの手つきを見つめていたものだ。
……あ……! それでか……? それでミカブーの奴、俺に……? たまらんなァ……
その美香は、地元の農協への就職が既に内定している。
嘆息しながらタバコをベンチの縁に押し付けて消し、吸い殻をポケットに突っ込んで立ち上がると、「ジョン!」と大声で叫んだ。グラウンドのあちこちをウロウロと嗅ぎ回っていた犬が、尻尾を振りながら、ヒロユキに向かって一目散に駆けて来る。
あ、待てよ…あ……
来年、自分は京都へ行く。そしてそこは、大学生となった田坂恵美も住む街だ。
板前姿に高下駄履いた自分と、女子大生の田坂恵美が、高瀬川のほとりで偶然に出逢う。すれ違いざまに目と目があったその視線をふいと逸らして行き過ぎようとする自分に、目を潤ませた田坂恵美がすがりつく……恵美の服装はなぜか紺の袴に矢絣の着物、髪型も大きなリボンを結んだ大正浪漫風で……ヒロユキの頭の中には、親父が酒に酔うたび歌うカラオケで、その演歌のバックに流れていたドラマ仕立ての映像が、男女を自分と田坂恵美に変換して、ふとよぎるのだった。
……ンなアホな……ないない、絶対に、ないね。
かぶりを振って苦笑しつつ、足元で尻尾を振り続ける犬をロープに繋げながら何げなく目をやると、こんもりと盛り上がったマウンドに、砂に混じった石英だろうか、夏の残照に何やらきらりと光るのを、ふと視野の端っこに捕らえた。
犬を繋いだロープの先端をベンチに結び付け、山の端に傾きかけた陽に、手をかざしながら立ち上がると、しばらくの間、光ったマウンドあたりをぼんやりと眺めていたヒロユキだったが、やがて意を決したように石灰が掠れたファウルラインを跨ぎ、一歩ずつを踏みしめるように、ゆっくりとマウンドに向かった。
粘土質のグラウンドの、堅く踏み締められたマウンドに立つと、伸ばした両腕を頭の上に組んで左右に大きくストレッチしながら、七〇メートルしかないライトから、サッカーのゴールが立つレフトまでをぐるり見渡す。外野のそこここにある水溜まりが、西陽を受けて光った。
甲子園とチョコレート、そして四月