テーマ:一人暮らし

某国四年史(下巻)

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 この二つの罠で母が私に辿り着ける可能性はゼロであると私は確信している。確信しているが、それでも母は母なのだ。何が起こるかわからない。私はもう一つ罠をしかけることにした。映画地獄という名の天国から抜け出した母が登った階段の先にはうってかわってシンプルな部屋。中央に布団が一つ敷いてある。遮光カーテンからは薄らと朝の光。ここで母を待ち受けるのは二度寝と呼ばれる至高の贅沢だ。この部屋は前二つと違って少し寒い。肌寒さを感じた母は何の疑いもなく布団の中に潜り込むだろう。こんなことをしている場合じゃない。そう思って布団から抜け出そうとした母はハッと気づく。そうだ、今日は土曜日だった。なんと、この部屋は無限に土曜の朝なのだ。一眠りした母は目覚めるたびに「あ、今日土曜日か。まだ寝てられるやん」の幸せを味わう。そこからの二度寝の誘惑を断ち切れる人物がもしいるとしたら世界三大宗教は世界四大宗教になっているはずだ。

 この罠も私の経験から生み出したものだが、これは私ひとりの経験ではないだろう。切り忘れた目覚まし時計にハッと目を覚まし、今日も学校か、と憂鬱な気分に沈みながら体を起こし、いつもと違って静かな家の様子に違和感を感じ、おかしいな、あ、今日は土曜日か、と気づく。そこから再び布団に潜り、ウキウキしすぎて眠れないんじゃないか、と思ったそばから幸せな二度寝に沈んでいく。世界には色々な幸せの形があるが、二度寝ほど完成された幸福は存在しない。母とはいえども完全な幸福を振り払って先に進むことは不可能である。

 階下に設置された三つの罠を思い、私はその頼もしさに口元が緩んだ。

 そして迎えた日曜日の朝。私はいつも以上に穏やかな朝を迎えていた。今日は何をしようかな。お菓子を食べながらゴロゴロするのもいいな。ゴッドファーザーを改めて観直してみようかな。このまま二度寝するのも良いな。

 ガシャン。その時響いた不吉な音。これはガラスが割れた音。床に散らばる窓ガラス、伸びる黒い影。目線を上げると見慣れた顔。ここにいるはずのない見飽きた顔。屋上から垂らしたと思われる厳ついロープをぶっきらぼうに手放し、特殊部隊が付けるような厚い手袋を脱ぎ捨てて、罠、思惑、設定、ネタ、小説の前半、中盤、起承転、全てを無視する力の権化は口を開く。

「おかあちゃん来たで」

某国四年史(下巻)

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