テーマ:一人暮らし

ねこのほね、みみずのなきごえ

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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「それってつまり鼻汁」
「うん」
「汚ね」
「そんなこと言わないの」
 愛佳は眉を吊り上げ、ぺしりとおれの頬を叩いた。
「いて」
「心配だったんだよ。ララはわたしのこと、自分の子どもだと思ってたから」
「ふうん」
拗ねた振りで身体を横向きにするおれの耳の裏と眉間を、愛佳はあやすように掻く。おれ、猫じゃないんだけどな。
「ねえ、ケンちゃん」
「なに」
 だんだんと眠くなってきて、おれは半分ぼんやりとした頭で返事を搾り出す。
「お願いがあるんだけど」
「だから、なに」
「――骨」
 愛佳の指が喉仏に触れた。

水の中で無理に呼吸をしているような感触だった。
鼻の奥から喉にかけて、もったりと湿気を含んだ空気がまとわりつく。振り切るように強く息を吐くと、口の中にまで熱帯夜の夜気が溢れかえる。
とにかく暑い。何より蚊が多いのにうんざりした。庭に忍び込んだのはすでに暗くなってからだったのでよくは見えなかったが、おそらくあまりまめに手入れされていないのだろう。
ジージーと何処かで虫が鳴いている。息継ぎを感じさせないのっぺりとしたこの音色は蚯蚓の鳴き声なのだと愛佳は言っていた。ママから教えてもらったの、夏のこの時期にだけ蚯蚓が鳴くんだって。
愛佳の母親は、愛佳が中学生の時に病気で亡くなったらしい。中学校の教師で躾に厳しかったという母親の写真は、ベッドサイドのチェストに飾られている。猫の骨のすぐ横に。
ママが死んでから、ララはもっともっとわたしに構いたがるようになって、過保護になったの。お風呂やトイレを外でじっと待つようになったのもその頃から。きっとララはママに頼まれたのね、愛佳をよろしくって――。
「ケンちゃん」
 待ちかねた愛佳の囁き声に、おれは一目散に藪から飛び出した。
 庭に面したガラス戸を細く開け、隙間から愛佳が顔を覗かせている。
「静かに。パパは二階だけど、最近あんまり眠れないみたいだから」
「わかった」
 ガタガタ揺れるガラス戸に苦心しながら身体を滑り込ませた先は和室のようだった。古い土壁と畳の匂いが押し寄せる。愛佳の育った家の匂い。
「電気、つけなくて平気かな」
「平気だろ」
「わかった」
 差し込む月明かりで、傍の愛佳の顔くらいなら見分けることができる。愛佳は少し強ばった顔で頷き、おれと向かい合って正座した。
「じゃあ、ケンちゃん」
「ああ」
 おれは抱えていた紙袋から小さな円筒形の陶器を取り出して、愛佳との間に置いた。
 いつも箱の中にしまわれていたララの骨壷を、実際に見たのは今日が初めてだ。

ねこのほね、みみずのなきごえ

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