テーマ:一人暮らし

ねこのほね、みみずのなきごえ

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読者賞はノミネート掲載された優秀作品のなかから、もっとも読者から支持された作品に贈られます。

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愛佳の声色は驚く程に平静で、不思議に明るい。
「今日のわたし、悪い子だね。だってほら、こんなに夜ふかしまでして」
いつだったか愛佳は言った。帰りが遅くなるとララは怒るの。
猫が怒るもんかと言い返す僕に、愛佳はむきになって言い返した。怒るよ、それもものすごくわかりやすいの。耳がぺたっと傾いて、頬がぶわあっと膨らんで、ぎゃあって鳴くの。にゃあじゃないのよ、ぎゃあって。それで、尻尾で床をびたんびたん叩いて、全身で説教するの。だからいつも、出来るだけ早く帰るようにしてた。飲み会があっても絶対に終電には飛び乗った。だけど卒業式の日、今日だけはと思って初めて帰らなかったその日が、ララが元気でいられた最後の日になった。
可哀想なララ。どうしてわたし、あの日に限って悪い子になっちゃったんだろう。それとも、わたしが悪い子になったから、ララは。
俺は深く息を吸う。喉を通る空気は蒸し風呂のようにじっとりと暑いのに、晒された肌はひやりと温度を奪われていく。
「いいんじゃねえの」
「え」
「別に、悪い子でいいんじゃねえの」
愛佳の帰る部屋を思い出す。埃一つ許さない真っ白なフローリング、ぴかぴかに磨かれたシンクにずらりと並ぶ調味料、整然と畳まれたタオルの山、カビも染みも見当たらない浴室。クローゼットにびっしりと並んだモノトーンの洋服たち。あまりにも完璧に整えられた、完璧すぎる部屋。
「そんなことないよ、だって」
愛佳は叱られるのを待つ子供のように目を伏せる。母親の話をする時、愛佳はいつもこんな顔を見せる。
おれは愛佳の頬を軽く抓り、無理矢理笑顔を作らせた。不格好で不細工で、無防備な顔。
「いいんだよ」
「でも」
「いいったらいい。おれが許す」
「でも」
 愛佳はおれの手を振り払って胸に顔を埋める。その丸くて小さな頭をそっと撫でる。
「なあ愛佳」
「なあに」
「前に言ってた、蚯蚓の鳴き声の話だけど」
「え、それ、今?」
 愛佳の声が跳ねる振動が肋骨から響いて、くすぐったさに笑いそうになった。
「そう、今。あのな、蚯蚓に発声器官はないんだってさ。あれは蚯蚓じゃなくて、土の中にいるケラって虫の鳴き声なんだ」
だから、愛佳。
「大丈夫だよ、愛佳、大丈夫」
「――ケンちゃん」
 小さな手のひらが、おれの背中にぎゅっとしがみついた。
「なに」
「わたし、頑張るね、一人暮らし」
 何言ってんだ今までだって、と言いかけて口をつぐみ、愛佳をぎゅっと抱き寄せた。
明日から、愛佳の部屋にララはいない。

ねこのほね、みみずのなきごえ

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