テーマ:お隣さん

耳毛の顛末

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 夫の耳毛がなくなっていた。右側にだけ、ほつれた毛糸のような耳毛が奥に向かって生えていたのに、いつの間にかきれいさっぱりなくなっていた。
 それに気がついたのは昨晩のことだ。夕方、仕事帰りにたまたま同じ電車に乗り合わせた桂子さんがしきりに右側の耳たぶをいじくっていて、どうしたのかとたずねると大切にしていたピアスをなくしてしまったのだという。あぁそれは残念ですねと返すと、恋人からもらったアシンメトリーの大切なピアスで、なんとか見つけ出したいのだがどうにもならない。それでもしかしたら耳につけっぱなしになっているのではないかと、そんなはずは絶対にないのについ耳たぶをいじくってしまうのだという。
 私は元々ピアスなぞに興味はなくて、大切な体に穴をあけることに抵抗があるというような奥ゆかしい女なので(縄文時代の女もピアスをしていたと夫は言っていたけれど)、申し訳ないけどどうでもいいことだと思いつつ桂子さんの話に適当にあいづちを打っていた。すると桂子さんは私の耳をまじまじと見て、きれいな耳をしてるんですね、と言うのである。
 桂子さんはマンションの隣人で、とはいえ会ったら挨拶を交わす程度の間柄なので、私はそんなことを言われると妙にどぎまぎしてしまって、私の耳たぶの裏側のホクロに気づかれたらどうしよう、なんてことを考えていたのであった。
 桂子さんはなおも私の耳をじろじろと見て、私ね、耳の穴が汚い人って大嫌いなんです、などと言う。耳の穴って、合わせ鏡でも使わない限りどうなっているか自分では分からないでしょう? そういうところこそ清潔にしておくべきだと思うんです。下着と一緒、見えないところこそオシャレにしておくっていう。ちょっと違うかしら? でもほら、たまに毛が生えてる人とかいるじゃないですか。そんなのは私論外、絶対にお断りなの。
 そこでふと、夫の耳毛に思いをはせたのである。桂子さんの言う通り、本来なら耳の穴というのは清潔にしてしかるべき場所なのだが、夫の耳毛は無防備の象徴のような気がして、あぁこいつは私に気を許しているんだな、依存しているんだなと、耳毛を見るたびに私はほくそ笑んでいたのである。へたをしたら、生まれてこのかた手入れをしていない可能性さえあるのだ。それを間近に見られるのは妻である私くらいのものなのだから、優越感も生まれようというものだ。そしてその晩、桂子さんとの会話を思い出して、スヤスヤ眠る夫の耳の穴を覗き込んで異変に気づいたのであった。

耳毛の顛末

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